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ハイダアート

    幼稚園に通う前まで、横須賀で生活をしていた。
団地住まいで、べランダの戸を開けると裏山の先は湾になり、軍艦が見えることがあった。
団地に子供用の遊具があって、ブランコだとか、ジャングルジムだとか一通り公園にあるようなものがしつらえてあった。
若かった母と父と、三人でブランコの周りで佇んでいたことを覚えている。
ともだちがいなくて、はぐれたようになっていた自分に父と母は、ブランコの漕ぎ方を教えたのだった。
その頃の自分のたのしみは、一冊の本を眺めることだった。

『たいようとつきはどうしてそらにあるの?』

それは、絵本だった。
ナイジェリアの民話を主題にしたその絵本は、西南アフリカの仮面文化の意匠で絵が描かれ、こまごまとした登場人物たちはそれぞれ好き勝手な容貌をしているのだった。
こどもを子供扱いしない乾いた潔さがその絵本の挿絵にはあり、横須賀の日常にはない、なにか突き抜けたリズムにつよく、魅了された。図書館から借りてきて、二週ほど手元に置いておき、絵を眺める。貸与期日が来ると、親にせがんで図書館に行き、返し、すぐまた借りてきて眺める。
自分を魅了したのは、土俗的なデフォルメだった。

   通っていた福島の小さな町の小学校の片隅の、丈高いひまわりの間に朽ちかけたトーテムポールがあった。
狩猟による獲物の解体がその意匠を創ったのか、臓物のつめこまれた胴のCTスキャンによる断面図を思わせる絶妙な歪みがもたらすふくよかさ、そしてふかい精神性。
その意匠もやはり、じぶんをつよく惹きつけた。
小学校の図画の授業は、なかば労役のようなものと捉えていて、はんぱな形で放擲してしまうことがほとんどだった。まわりのこどもとの暴力的な人間関係や、そこから昂じた自分の虚言癖から生じる家の中での在り様との乖離にさいなまれて、その頃の自分には自分の感覚でありながら、泣くことをやめた日からごくせまい限られた感情しか感じ取ることができなくなっていた。しかし根底には、土俗的なリズムへの希求が依然として残っていたらしい。会津の日常にはその希求に応えてくれるものがなかったのだが、唯一つ、その朽ちかけたトーテムポールの前を通り過ぎるたび、自分は自分が特別な視線でもってその異国の木製の塔頭を眺めていることを感じていた。
 後年、その意匠が「ハイダアート」と呼称される、アラスカのネイティヴアメリカンのハイダ族、トリンギット族の意匠であることを知った。自分は資料を集めながら、イラストレーションボードで様式を身につけようと描いた。
しかし、まるでうまくゆかないのだった。

 

 

 

シリーズ 一つ目の心臓顔