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About triptych "This belongs to nobody"

 This paint was made after the nuclear power plant disaster brought by huge earthquakes and Tsunami occurred in 2011.3.11 in Fukushima Japan.

   Fundamental system of nuclear power plant which never work without distraction of worker's health from deep exposure, the specific existence which got huge money and riches from this system, the bigness of this specific existence, complicity of measure media which works toward hiding the danger of radiation and exposure because of their depending on this system too, separation of human being and gene brought by radioactive materials spread after nuclear power plant disaster and confusion. Deaths of animals and human beings lived in 12 miles area from Fukushima dai-ichi nuclear power plant which occurred because this area had been set as keep out zone from deep contamination after 3.11, matters of exposure and evacuation, relationship those who survived from Tsunami and those who was killed by, a primary situation wanted to be there (this has not realized yet), these themes are described in this paint based on what I saw and listened actually with my hope.

 ―" This belongs to nobody "―
this name was taken from a trial so called "this belongs to nobody trial " about contamination matter occurred 2011 August. In this trial too unreasonable judgment was decided, it made me anger and want this paint to displayed in not closed space but on the open-air street in front of institutions had not taken responsible correspondence for 3.11 like confronting this paint with them. At first there were no chances to realize my this intention but the activity surrounding the diet took place 2012 3.11 made me think like I was given place, then I started to bring this paint onto the street in front of either the diet and the diet correspondence chamber almost every week.
 Situation has changed gradually, in Fukushima people started to raise their voices. I got came to bring the print to these activity for example " Fukushima collective evacuation trial " or " Fukushima clinic " and so on took place in Sendai,Fukushima.Then fukushima's residence came to display my print on the street of Fukushima by themselves.


In front of the ministry of economy and trade. 3.11 2012.


Kasumigaseki in front of the diet. ,Photo by Teppei Sato 11.19 2012.


Fukushima station. Photo by Erika 11.23 2012.

  

  

 

About the title

 This paint's title is " This belongs to nobody ".
As this has written already in above this name was taken from a trial occurred 2011.August.This trial was named " This belongs to nobody trial " in Japan.

 (about " This belongs to nobody trial "-Video news.com Tetsuo Jinbo only Japanese))
 This trial was filed to Tokyo regional court by Sun fields Nihonmatsu golf club against Tokyo Electric Power Company (TEPC0). As Fukushima dai-ichi power plant was belongs to TEPCO,this golf club located in Fukushima wanted TEPCO to sweep away radioactive materials from their golf course.These radiation came out from crashed Fukushima dai-ichi nuclear power plants,felt down and stuck to the grass.It's contamination level was 2~3μSv/h degree, it took away customers from this golf club.From this damages they filed appeal. but Tokyo regional court rejected it.
 Defense of TEPCO used a word " Thing which belongs to nobody " to describing radioactive materials.
―As long as it has stuck to grass already,it is out from our management. It does not belong to us.This belongs to nobody.―
 Though Tokyo regional court didn't admit this explanation, neither they didn't admit damage which had been there actually nor accuse TEPCO 's responsibility.

―No matter how much damage they had brought, the strong would be defended absolutely. No matter how much damage they got, the weak would never be defended absolutely.―

Rot of justice−I felt.
There is no reason and logic,they just only strengthens gap between the strong and the week as public institution. Just only low level behavior it looked like. This low level institution was this country's Japanese justice. Bitter this was I felt. I got anger, and decided to make paint as a apocalypse under the name "This belongs to nobody."
 −" This belongs to nobody "−it means "this is nobody's thing"
After 3.11 radioactive materials got became things owned by not only country,a electric company,owned by us every people in Japan.
 As it is same to this, this paint is not owned by just only me,this belongs to this country, electric company,Fukushima's inhabitants,this distorted era
and you.
 Like this thought I named this paint "This belongs to nobody."
(gradually I will write under passage)


 

 

How "This belongs to nobody" is changing


 
 At first I started to make sketch by pencil (center and right pieces has been lost).




 
 This sketch was based on a paint which I had once painted 2003 but couldn't finish.
 The gigantic man-made heart peeped out from the black hill. A man was there who connects huge artery extended from this heart to his stomach. Sitting he cut this artery and make blood spread the ground from artery. A pond of blood emerged, lotus flowers bloom in it. He tries to hand one of lotus flowers to a girl sitting in front of him. About more detail I will beneath,making this paint had stopped 2003.




 2012.3.11 I stopped maiking this painting once as first version.
Ruined reactors No.3 and No.4 of Fukushima dai-ichi, distorting gigantic man-made heart, workers whose each hearts are conected to gigantic heart and whose blood are sent to this big man-made heart rushing to the heat, a man monoplyze fresh and warm blood through huge man-made artery, a man decided to cut this artery to share warm and fertility with a girl and by the the 3rd arm he tries to give balloon to her, a couple with baby standing, a couple wife is pregnant, junior high school boy, inmaparas gathering aroud blood pond made from tons of blood which a man spreads on the ground to get warm, first verision is 、冬の日に、その巨大な心臓に自らを連結させて新鮮であたたかな血流を胃袋におさめて独占する男、ひとりの女の子に向けて自らの人造の血管を切りさばいて暖を与え、同時に三本目の腕でこの場所から脱出する風船をさしだす男、赤子を抱いた夫婦、これからこどもを産む夫婦、学生服姿の男子中学生、血の池のまわりに集まってくるインパラの群れ。
 原発という利権構造のかたち、作業被曝、対応が全くなされなかった初期児童被曝の問題、事故後、被曝による健康被害を案じる人々、20キロ圏内に現出した自然状態を題材に2012年3月にまず第一段階の完成としました。





 その後官邸前に持参するようになったのですが、参加人数が爆発的に増え、大きな絵を置いておく場所がなくなりました。それで、いったん幅一メートル弱の印刷物にしました。英語で題名を入れたのですが、はっきりいってそれは失敗でした。絵の意図を言葉にする作業になれておらず、誤解をうむものになったとおもいます。


 


 ともあれ、その印刷物を持参する間、以前から描き足そうと思っていたこと、新たに明るみに出たことによる修整を絵に加え、その時点で第二段階の仕上げとしました。インパラを、それぞれ20キロ圏内で餓死した家畜、山の動物に置き換え、汚染程度のはげしい魚、野鳥を公表された資料をもとに書き加えました。また、被曝の問題に関して徹底して取り上げず、疑わしい電力需給と復興の正当性ばかりを繰り返して報道したテレビメディア7社の象徴として7つのテレビを描きいれました。また、がれき処理問題を象徴して子どもを抱えて駆ける母親を、疎開の問題を象徴して赤い風船を手に飛翔してゆく人々、津波でながされたひとびとを描き残しました。これが現在の原画の状態です。
 イラストレーターの中田周作さんが、官邸前でのこの絵の拡大版をアップしてくださっております。
http://www.ne.jp/asahi/schu/moon/311art/akira-tuboi_art2.jpg






 その後、郡山集団疎開裁判第二審審尋が仙台でひらかれ、それに合わせて行われた集会に絵を持って行こうとしました。しかし、東京から仙台へ向かうそのバスの旅程で絵の損傷の責任は負えない旨を企画責任者の方からうけたまわり、急遽、大判のプリントにいたしました。福島市に持参したのもこのプリントです。





 しかし、福島市でお会いした方からお聞きした話のほか、描き足さなければいけないことがまだあります。これからまた絵に変更は加えられてゆきます。その変更もおってこのページで更新してまいります。ここでは、その絵の変遷と、じぶんの状況のなかどうこの絵が出来てきてたのか、すこし詳しく述べてゆきたいと思います。




 


 
 絵というものは、それが客観性を目指したものであれ、主観に根差したものであれ、いずれにせよ、それぞれの個人が感じるそれまで目には見えなかった何かを、目に見える状態にする営為であるように思われます。
 
 ]線が、肉眼では見えないわれわれの体内の様子を青白く浮き上がらせるように、かつて日本の絵師たちも色とかたちでもって、目にはみえないけれども人に害為すものを時として「妖怪」という概念で絵に託してひとびとに提示しようとしてきました。自分の絵の主題にもいくつかの主題があって、ごく個人的な生活のなかでかたちにしなければいけないと描いた絵もあるのですが、それとはまた同時進行で、この「目には見えないけれども、確実に現代に息づく妖怪」をかたちにしようとずっと、あがいて来たふしがあります。
 この絵のなかで、巨大な心臓は原発で働く作業員の方たちから膨大な量の新鮮な血液を奪い、プールし、特権的な立場の人間の胃袋へ送り込む役割を果たしております。巨大な心臓、そこに自分を連結させた男、その男が連結させた人造の動脈に切り込みいれて地面にばらまき、少女がその池の面を見詰めている。その女の子に、血の池に咲いた蓮を男が手渡す。もともとこのテーマはだいぶ前に一度とりかかったのですが完成させられずお蔵入りさせた経験があります。
 2003年、アメリカがイラクへ、翌年アフガニスタンに軍事侵攻した頃だったと思います。"Greed;貪欲"という言葉がさかんに言われ、中東の街が爆撃され、人がたくさん、殺されました。

 介護職で働いていた仕事場に、アフガニスタンから亡命した年老いた女性がおりました。日本語の一切話せない方でした。ご家族により残されていたトルコ語のメモはありましたが、職員は怠慢から彼女の言葉を使うことはせず、彼女は苛立ちのなかで孤立していました。新入りであったじぶんが残されたメモから単語を覚えて、むこうの言葉でこんにちは、と初めていった時の目の輝きを覚えております。それからじぶんは彼女と距離が近くなり、日本の美術の図版を見せるようになりました。戦争がはじまり、テレビでさかんに爆撃や破壊の映像が流されました。そんな破壊の映像を彼女に見せないよう、むごい気持ちで破壊前のアフガニスタンの写真集をつたない言葉でその頃見せていたのを覚えています。
 夏の納涼祭で夜の闇に散る花火を見ると、怖がるひとでした。
 ご家族の体験も戦火をくぐりぬけたすさまじい話が多く、彼女には花火の炸裂は、爆撃の炸裂を思わせるようでした。克服し、豊かさを打ち立てはずなのに、豊かさの行き過ぎを知ったはずなのに、中世に回帰したような言葉で軍事進攻は宣言され、ひとは殺される。自分は、絵の中で、その老女を幼いころのすがたに回帰させて、心臓と男と少女の絵を描き始めました。しかしとりかかったのはよかったのですが、いかんせん手が止まりました。中途で描けなくなりました。東京は自分をふくめて平穏で、物はあり、仕事もある。食い物にも困らず、友人が爆死することもない。戦争の大枠はわかるけれども、実体をともなった細部がわからない。巨大な心臓、男、女の子以外の要素を描くことが出来ませんでした。―抽象的すぎる―。その絵は、そこで頓挫したのでした。




 3.11以前、じぶんは放射性物質についてなにも知りませんでした。 被曝が、この日本という国でどう扱われてきたのか、まったく、知りませんでした。
 ただその一方で、
―今の世の中では良しとされているらしいが、これはなにかが絶対的におかしいぞ。―
 そんな違和感はおりごとに感じていました。
 その感覚はずっと自分の芯にあり、それは、街の様子、まわりを囲む人間の言動、音楽、表現活動、食べ物、職場という集団のなかで働く力学、さまざまな場面でもたらされ、自分はそんな印象をもたらす事態を絵という断面にして提示して参りました。そこに一貫していたのは、一種の視野の狭窄、過去と陰への視座の欠如だったように思います。
 そんな絵を描いてきたはしくれとして、3.11は、この過去と陰への視座の欠如が堆積した結果だったと映りました。そして、事故後の社会の在り方は、この視座の欠如がある意図をもって人為的にもたらされてきたものであること、これからも構造的にもたらされようとしていることを暴露しました。
 3.11は、自分がそうしてずっと追ってきた現代に巣食う妖怪のすがたを、まざまざとはっきりとしたかたちで自分の目の前に現わした―そんな事件でもありました。


 2011年3月11日の午後。自分は下北沢におりました。

 以前下北沢の再開発問題に反抗して絵を描いたことがあり、じぶんの活動をドイツのメディアがとりあげました。そこからドイツとフランス合弁のアート系番組制作会社が下北沢と自分についての番組を造らせれてくれという話になり、その収録の二日目でした。
 下北沢には、戦中の闇市の跡が残されています。下北沢駅前食品市場といいます。そこはバラックで造られたいつもうす暗い場所で、敷石が人の足でなめされてやわらかく光っていました。じぶんはそこに入ると、落ち着くのでした。その理由はよくわかりませんでしたが、現実として時の連続を感じさせる物があるということが、自分を小さく感じさせてくれるような気がしていたのでした。老朽化と、街並みの細密な状態が消防車の進入を妨げている、そんな理由から駅前の大規模な開発が計画されていました。道を大きくし、それにともなった大きなビルが建つ、そこに大きな会社が入り、税収が見込まれる、そんなことを開発の利点として語る言葉を説明会で聞きました。駅前市場は当然、解体されるというのでした。
 ―また、平板な物が増えるのか―。
   自分は悲しくなり、大きな絵を描いておくことにしました。
 
 その絵は『開発―隠蔽という名の獅子舞―』という絵でした。


 7枚の板を横に並べる絵で、森の中を進む大きな獅子舞が描かれていました。獅子のなかには、3人の顔をかくした男たちがいます。先頭の男は、鋭利な歯のついた獅子頭を白い着物の着た女の腹に食い込ませ、女は血を流している。
 女の体には、血の通った時計があるのですが、先頭の男の仕事は、その生きた時計を取りだすこと―。
 真ん中の男は、そうして取りだされた生きた時計を、おおきなハンマーで粉砕するのが役目でした。
 一番後ろの男は、そうして粉砕された時計の上に、アスファルトをばらまき、一番後ろについている熱く、巨大なローラーがそのアスファルトを溶かしながら舗装して道を造ってゆく。
 獅子頭がおんなの腹に食いつくところを、無数の白い鳥たちがやめさせようとして羽ばたいている。しかし、鳥は無力。
 舗装された道路の下には、破壊された時計から流出した血が流れている―。
 そんな絵でした。

 美しいカップルの二人組のクルーが来て、おんなはインタヴュアー、おとこは撮影を担当していました。
 下北沢に実際に向かい、じぶんのインタヴューを街の様子とともに撮る、それがその日の予定でした。通訳は、その頃じぶんと近しかったドイツ人でした。
 ジャーナリストになりたくて、でもうまくゆかず、望まない仕事をしながら取材の種をさがしていました。そんなころにじぶんについての記事を書き、それがようやくドイツの大きなメディアに取り上げられ、第一歩を踏み出しはじめました。自分は取材対象ではありましたが、彼女も第一歩を踏み出せた嬉しさからだったのでしょうか、自然と距離が近くなっていたのでした。
 4人で下北沢の一番街を入ると、猫とあそべるカフェがありました。
 ものめずらしいきもちがあったのでしょう。みなでその中を覗きこみました。
 客はおらず、猫はそれぞれ動いておりました。
 と、
 
 突然感電したかのように猫たちが一斉に毛を逆立てて室内を駆けめぐりました。
 
「ドウシタ?」
 連れが言いました。地震のはじまりでしたー。

 じぶんを落ち着かせてくれる駅前市場に、地震を知らぬドイツ人たちを安心させられる強度はありませんでした。
 それまでどっぶりと浸かりこんで理ありとしていた退廃が、ただの惰弱だったことを知りました。

 揺れのなか、異常なことでしたがその日の収録を完遂しました。予定では翌日に渋谷の雑踏のなかへ移動し、あるシーンを撮影する話でしたが、そんなことは言っていられない状況になりました。仕事場から連れが、ふるえた声で電話をかけてきました。

「アキラ、怖イヨ。」
「ゲンパツ、ガ危ナイ。」
「ミンナ、“カクバクハツ”ガ起キルカモシレナイト言ッテイルヨ。」

 国営放送の仕事もするようになった連れがそう言うのでした。
じぶんはパスポートがないので、連れにいち早く他のドイツ人たちと供に日本から避難するよう促しました。

 パスポートを家に置き忘れた連れを被曝させないように車で迎えに行き、すぐ赤坂へ戻しました。ドイツ政府は国外避難のための特別旅客機を準備し(その旅客機は結局台湾でストップし、日本に到着しませんでした。パイロットが日本に向かうことを土壇場で拒否したのでした。なので、ドイツ人たちはそれぞれ別々に日本を出国していました)、その到着をドイツ人たちは動乱にちかい精神状態で待っている、そんな状態でした。自分はパスポートがなかったので、近しかったドイツ人を、ひとりで逃げるよう、謝って再度送り出しました。 死を覚悟していました。それは自分にはさしてむずかしい判断ではありませんでした。しかし、核爆発で死ぬ、そのことは恐怖でありました。
 赤坂のビルに着くと、地震で帰宅困難になったその日の収録を観に来ていた無数の娘さんたちがおりました。見ていた番組ごとに分けられていたのでしょうか、ひろい一階のフロアを娘さんたちの群れがそこここに分けられて騒然としたなかに満ち満ちておりました。膝を抱えて座っている娘さんたちの間を、二人、無言で抜けてゆきました。われわれを見上げた彼女たちの瞳に、目の前を無言で行くわれわれが核爆発の予感をひそかに抱えて緊迫していることは知る由もないようでした。

 それは、むごい光景でした。

 なぜだか、彼女たちが無垢な小動物の群れのように思えてなりませんでした。
―あの時の、断絶。―
 あの光景こそがじぶんにとっての放射能問題の原景だったように思います。
 ID認証を通って上層に行き、送り出しまして、帰ってから、mixiで海外の情報とヨウ素被曝に備えて海苔のパックを大急ぎで食べているドイツ人の対応などをできるだけ情報拡散しました。核爆発のことは言いませんでした。
―逃げられる人間は、南へ逃げろ。若い女性とこどもは、海苔を食べろ。こどもを外へだすな。雨に、あたるな。―
自分はノルウェーの気象台がサイト上で伝える風向きと放射能拡散予報図を添えて、繰り返して無差別に投稿しました。自分がどうなるかは、あまり考えませんでした。
「メルトダウンしてたら、こんな状態じゃすまないだろう。」「いっせいに逃げたら、パニックになるだろう。」
 それまで親しかった人間はそう言うので、縁遠くなりました。 テレビは原発の構造に異常は起きていない、そんなことを繰り返していたように思います。その一方で、フランスのネットメディアはメルトダウンの可能性と、最低でもレベル5相当の放射能事故になるだろうと予測していました。

 ドイツから取材をしに来ていたカップル二人は、守ってくれるものがありませんでした。

 「いま、どうしていいかわからない。今の状況がどれだけの危険なのかわからない、怖くて、ほとんど泣いてしまった。アキラ。おまえはどう思うか。」

 そんな連絡が届きました。 金色の髪の美しいインタヴュアーの女性でした。
 じぶんは、答えました。

 「取材してくれたおれの絵の主題「隠蔽」が今動き出すぞ―。
いいか、よく聞け。この国は、かならず、隠す。おそらくすでにメルトダウンがはじまっている可能性がある。君たちはおれにくらべれば恵まれている。まず、君たちはドイツ人だ。この日本の国の人間じゃない。この国にとどまる理由はないんだ。パスポートもある。この国から離れるチケットさえ取れれば、すべては解決できるんだ。だから、できるだけはやく、チケットを確保して、逃げろ―。」

 じぶんは連絡し、二人はタイのクアラルンプールに住む両親のもとに行きました。


 翌日、仕事があったので、警戒した格好で行きました。自分以外には警戒している人間はいませんでした。水にひたしたタオルで口と鼻を覆ってゆきました。昼休みに電話がありました。
 ―ドイツ政府から家族扱いでじぶんの旅券が特別に発行される、一緒に逃げよう―。
連れは言いました。
 自分はパスポートを持っていないことを再度伝えると、日本の南へ逃げろ、沖縄か福岡のいずれかを選べ、そう言われました。
 自分は翌日から撮影のために無理を言って取らせてもらった三連休だったので、国際空港のある福岡を選びました。福岡へ行ったことはありませんでした。福岡でパスポートを取ってドイツで合流する話になりました。自分の家族は直接の縁者でないので旅券は出ませんでした。家族は家族で、その話を聞いて奈良にいる知り合いを頼んで関西にゆくことになりました。戸を閉めきり、二匹の飼い猫にたくさんの水とスナックのごはんを洗面器に盛っておきました。

 雨だったと思います。
 福岡について、博多出身で以前音楽を一緒にやっていた年の若い男に福岡にいるかと思って電話をすると、まだ神奈川にいました。
「ニャーコさんはどうしましたか。」飼い猫のことを聞くのでした。
「おいてきたよ。」
言うと「えッ。」じぶんの冷酷さにおどろいた声をあげました。
 
 戸籍関係の書類をかき集めて着いた先の福岡で、パスポートの申請について問い合わせると、すでに緊急事態特例が下りていました。
 普段なら許可できないが、福岡でも取得できるとの返答をもらいました。ただ、役所によると福岡にずっと住んでいる人間による身元保証がないとパスポートは出せない、とのことでした。
 連れの知り合いである中国人の奥さんが、横浜からすでに福岡の妹のもとに身を寄せていました。その方は妊娠していました。ドイツ人のだんなさんは、事故が起きるとすぐに帰宅し、トランクに必要なものを突っ込み福岡への旅券を手配したと言いました。風の向きを 調べ上げて、この日は外に出るな、奥さんに言い含めたと言いました。奥さんはその切迫した様子にあきれたらしいですが、福岡の喫茶店で向かい合うと、ノンビリシスギテイタネ、感謝シテイルヨ。と言いました。自分との話をすると、協力してくれることになりました。

「###ヲ大事二スルンダヨ。」
別れ際に、結局大切にできなかった連れのことを言われました。

 パスポートが降りるのを待つ間に、休暇の三日はすぐに過ぎ、もどろうかとさんざん迷った末に、東京に戻らないことにしました。
 自分は馘首されました。
 3.11のひと月ほど前に自分が一人立ちしてから妊娠している奥さんの故郷のいわきへ引っ越していったピアノのうまい同僚は、連絡が途絶えていました。

 色々あり、無職無銭の状態で東京から戻ってくると、ふとしたおりに自分が連れを取り、家族を放置して逃げることを決めたことを、なじられました。


 

  そうしてホテル住まいをしていた福岡の生活の中で、事故以前から見ていた岩上安身氏主催のIWJが紹介するインタヴューや原子力資料情報室等がネット上で伝える原発の状況の推移を息をつめて毎日見詰めていたのですが、それまで自分の名を隠し、偽名で情報発信をしていた元東芝の格納容器設計者の後藤政志氏が毎夜説明するなかで示す原子炉の構造図は、事故以前から一貫して被曝の問題を追及してきた写真家、樋口健二氏の話等を聞く中で、ある感慨をじぶんにもたらしました。

―原子炉は、心臓なんだな。―
―巨大なものに従属する、人を食う戦後日本の心臓だったんだな。―

 東京にもどり、さまざまな意味で表現する場所が喪われたように思い、また職場を捨てた自責と別離から絶望していた中で、じぶんは死ぬ前に、この心臓の絵を描いておくことにしました。かつてあきらめた心臓の絵は、この事態を描くべき絵だったのかもしれない、そう感じました。三枚組の絵なので、紙に鉛筆でおおまかな下描きをしました。


 

 事故後、自分に見えてきたのは、具体的な社会の機能不全でした。

 原発は、機能不全をおこした学者の判断の上になりたち、その認可は機能不全を起こした国により認可されました。設計図上は安全であっても、機能不全をおこした施工主は安いからと図面とはちがう材料で配管を造り、機能不全をおこした国は、まちがった設計があっても正すことはしませんでした。稼働した原発からうまれる放射能で被曝した者は、機能不全をおこした医者にその疾病の実体を隠蔽され、苦しみと失意のうちにある者は死に、それを不服とした裁判は機能不全をおこした司法により斥けられました。原発と放射能の危険性を機能不全をおこしたメディアは伝えず、かつて原爆で放射能の影響を実際に身をもって調べた医者の存在を、機能不全をおこした教育は名前すら子どもに教えませんでした。そうした偽りの末に事故がたとえ起きようとも、機能不全をおこした検察、警察は取り調べもせず、被害をこうむった一般人は機能不全をおこした行政により適切な対応を得られず、泥を呑んだままです。そして、機能不全を起こしていたわれわれがこの状況を放置し続けた結果、3.11は起きました。事故後にあっても、危険なものから身を守ろうする者は、機能不全を起こした住民により、糾弾を加えられ、機能不全を起こした政治家は、この地震国には原発は適さない、こんなごく簡単なことを認めようとしません。 そして、その機能不全が、多くの死と、分断を産みました。
 しかしこれらの機能不全は原子力発電という仕組みににより生じたものではなく、すでに以前から社会全般が機能不全であって、事故によってわかりやすいかたちで明るみに出ただけなのだと思いました。
 原発は、この化け物とも云える戦後日本の体制の象徴的な心臓であった、自分は感じました。そして自分は、原発に反対する意図も当然ありますが、それ以上に、この戦後の体制から言葉にすればごくありきたりの『まっとうな』バランスを取り戻そう、そんな意図からそれを絵にしておく価値を再度確認しました。


 

 日本の原子力政策は、日本一国の思惑でうごいているものでないことも、また3.11後に明らかになりました。

 原子炉を製作してきた会社は、今やみな、日本の会社の傘下にあります。アメリカ、フランス、原発を積極的に動かしている国にとって、日本の原子力産業が停滞することはこれらの大国とよばれる国々の原子力政策が停滞することを意味するのではないでしょうか。
 チェルノブイリ原発事故は、事故を想定した訓練中のミスで生じました。スリーマイル島の原発事故も、修理による手違いで事故に至りました。もっぱら自然災害を原因に原発が事故を起こしたのは、この地震大国の日本一国です。その危険性を身をもって経験した人間の声のみが、この巨大な思惑を制止させられるだけの正当性があるのだと思いますが、その被害を深刻に受けた日本にしか、原子炉の製作技術がない。そんな国に原発事故は起きたのでした。
 上述の大国にとっても、福島の事故は、彼らの運営する思惑を頓挫させかねない事態に発展するかもしれず、だからこそ、 フランスの大統領が事故後まもなく訪日したり、アメリカの政治界隈の人間が日本政府に躍起になって原発をつづけるよう指示したのではないでしょうか。しかしこのことは、今日本人が、この巨大な思惑の心臓を現実として目の前にしていること、そしてあまりにも巨大ではありますが、福島での事故により、その心臓を日本人ひとりひとりが実は掌の中に握った、握っていることを意味しているのだと感じました。そしてより重要なことは、

―この日本にとっては危険すぎるこのシステムを存続させようとするあらゆる力が、この手に握られた「鍵」の存在をどうにかして見えないように、風化させようと躍起になっていること―

ではないでしょうか。
 放射能は、目に見えず、においもしません。
 そんな目に見えないものを認識しなければいけない事態のなかで、逆に隠蔽し、目には見えないように働くの大きさを考えると、絵にも一定の大きさが必要だと感じました。
 130センチ×98センチのベニヤ板を三枚並べる手法で描くことにし、崩落した福島第一原発3号機、4号機を背景に、巨大な人工の心臓、そこに個々人の心臓を連結され血を喪いながら駆けてゆく作業員、冬の日に、その巨大な心臓に自らを連結させて新鮮であたたかな血流を胃袋におさめて独占する男、ひとりの女の子に向けて自らの人造の血管を切りさばいて暖を与え、同時に三本目の腕でこの場所から脱出する風船をさしだす男、赤子を抱いた夫婦、これからこどもを産む夫婦、学生服姿の男子中学生、血の池のまわりに集まってくるインパラの群れ。それらを配してだ一段階の完成としました。
絵のなかで、巨大な人造の心臓を、作業員の男が駈けつけながら見上げる図を描きました。その大きさでも、この思惑の大きさを表現しました。






 
 この巨大な構造も、しかし人間によって運営されております。その生態をいざ絵にしてみると、それは過去の出来事を描いたものではないので、体制を実際に動かしているひとびとの前に置いた場合に、彼らがいかなるものに使役しているかを目の当たりにさせることになります。
-鏡を見せるように-。
 妖怪妖怪と言いますが、自分も日本国民として日本にいる限りで、その化け物としてうごく政治体制の一構成員として生きていることになります。
しかし、現実として、この古い巨大な心臓は、2011年3月11日にふいに起きた地震により、心臓発作をおこし機能不全に陥り、傾きました。

 -もう、潮時だ-。
 -今こそ、あたらしい、まっとうなバランスをとりもどそう-。

 そんな思いから、自分は、妖怪が妖怪であるのを止め、本来の人間に戻ろうとするある朝焼けの絵を描きました。
 これまで自分の胃袋に人造の太い動脈を連結し、新鮮であたたかな血液を胃袋におさめていた男がその動脈に刀で切り込みを入れ、大地にばらまきます。その血の温みを求めて、冬の寒さに凍えていた動物たちが集まってきました。大地にばらまかれた血の中から、傷のない遺伝子が生まれました。男は、これまで独占してきた血を材料に、ヘリウムよりも軽い、地球上でもっとも軽い気体の入った風船を作って、女の子に差しだします。この場所から、逃すために―。彼女のともだちは、この風船をつかんで、空に浮かび、べつの場所へ飛んでゆきました。
 疎開の問題と、上述したように新しいバランスへ移行してゆくことを求めて表現したこの絵を、鏡を見せるような理由からも、この国の 統治機構に身を置く人間がおおくいる霞ヶ関首相官邸前、国会記者会館前、経済産業省前に持参し、そうした方々に見てもらおうと設置することをはじめました。 

 アートというものは、人間に無垢な感覚をよみがえらせるものだと思います。
 日本にかぎらず、かつて絵師たちは妖怪や化け物を描いたのと同様に、「目には見えないけれども、そうあって欲しい」そんな理想のすがたをかたちにして示そうとしてきたように思います。そうした絵を提示して、観た者にバランスを回復させる。アートはそんな機能を果たそうとしていたのではないでしょうか。妖怪と化してしまった人間の姿を描いた自分は、またそんな思いからいまだ訪れていない朝焼けの様子も理想図として描きました。そしてそんなアートが必要な場所は、2011年後半の日本では舗装された道の上にあるように思いました。画廊や、ギャラリーといった閉じられた空間ではなく、そんなアートというものからほど遠い野ざらしの場所を求めていたのですが、ありませんでした。いろいろと考えましたが、他への影響から止めました。それで、絵は描いたのはいいが、どこに晒そうか、まったくめどのつかない状態になりました。そうこうするうち、2012年3月11日に国会議事堂を包囲する行動が催されました。街を歩くのではなく、ただ国会の周りを包囲する、そこに自分は場所を与えられたように感じ、急いで絵を仕上げました。
  その行動は国会前から首相官邸前に移り、自分はそれからほぼ毎週絵を持参するようになりました。

 

 


福島現地からの行動―福島集団疎開裁判と福島共同診療所―



 東京の官邸前をはじめ、日本のさまざまな場所で原発に反対する声があがりました。自分が絵を晒すのもそのひとつで、日本の中枢がこのばかげたシステムを止めるよう、みな声をあげていました。そのなかで、政府はいくつかの重要な路線変更点を迎えます。

―事故後停止された各地にある原発をふたたび動かすのか―。
―これまで機能不全を起こし、3.11が原発事故に発展する要因をつくってきた専門家をふたたび、法を犯してまで重用するのか―。

 この二点で、結局政府はこれまでの機能不全の路線をふたたび踏襲するにいたりました。
 事態が推移するうち、2012年9月11日に公表された福島県による県民健康調査の結果で懸念されていた現実が、専門家の予想を上回ってあきらかになりました。

参考映像-甲状腺検査の実施状況(平成24年度)及び検査結果(平成23年度・24年度)について
 福島のこどものほぼ半数に通常は見られない健康被害が現れたのです。詳しくは後述しますが、この事実を受けて、福島現地でさまざまなかたちで声があがりはじめました。じぶんはいつしか、その福島での行動に絵のプリントを持参するようになりました。
 それらの行動はまずおおまかに言いますと、こどもの被曝に対する適切な対応を求める方向と、被曝してしまったことに対して適切な医療を行おうとする方向です。
 
参考映像-福島集団疎開裁判について-Video news.com 神保哲夫氏))

 2011年6月24日、郡山市の中学生14名が、郡山市を相手取り、チェルノブイリでは強制避難区域とされた地域に等しい汚染のある場所で教育を受けることは、環境汚染のない場所で教育を受けるこどもの権利を侵害している、1時間あたり0.2マイクロシーベルト、年間の積算量にすると被曝量1ミリシーベルト以下の場所で教育を受けさせるよう求めた裁判を福島地裁郡山支部に対して起こしました。いわゆる「福島集団疎開裁判」です。
 この申し立てに対して、郡山市側は現在緊急に疎開措置をとらねばならないほどの切迫した汚染は確認されていない、除染活動でこの汚染は除去できる、この14名の訴えを認めた場合、ほかの郡山に住む児童三万人すべてに対策を講じなければならなくなる、そんな理由から訴えを却下し、地裁もこの郡山市側の言い分を認める決定をしました。

 「この裁判の原告14名の中学生たちは、名前も顔も公表することができません。」

 弁護人の柳原氏が語るのを霞ヶ関で聞きました。
 「放射能の危険性や、被曝、疎開について口にすることは、いま、福島でタブーになっております。復興の妨げになる、こうした名のもとに、被曝をさけることを口にする者は村八分にあう、そうした状況にあり、原告の14名は糾弾をおそれて名を公表できないのです。」
 むごいはなしだと思いました。
この裁判の第二審が仙台でひらかれる、それに際して東京から応援を送るバスを手配した、希望される方はどうぞ、仙台へ来て、声援を送ってください、そう続けるのを聞いて、自分はそこに悩んだ末に行くことにしました。

 タブーになっている。

 この言葉がじぶんに残りました。
 少数派として孤立し、結果口を噤まねばならないのならば、彼らを少数でなくする以外ない、と思いました。関係性の糸を外側から投げ込んで、このごくあたりまえのことを感じている声を、少数派でなくする助力をする以外ない、じぶんは思い、仙台に向かうバスに絵を乗せられるか、企画者の方に電話で聞きました。荷物を入れるスペースがあるかどうかわからない、あったとしても、絵を傷つけることに責任を持ちたくない、そんな回答を得、自分は急遽絵をプリントすることにしました。せっかく印刷するならば、言葉を添えることにしました。
 「いつわりを、やめろ。」
 そんな文字の入った絵を一人持参し、とりあえず広げると、みしらぬ方が集まり、ひろげ、掲げてくださいました。
 そのうちの方の一人が言いました。

 「―ゲルニカ。―」

 ゲルニカが、爆撃に抗議するために急遽ベニヤに書かれたことを、その記者の方から聞きました。



 「(2012年9月11日の福島県県民健康調査で)18歳以下の43パーセントに甲状腺異常が発見されましたが、癌検診に関わらず、通常のいかなる検診でも異常が出るのは10%前後です。
 15〜20%を超えた異常があった場合、その検診の精度自体がおかしい、となる。逆に5%以下でも精度が疑われます。
 この43パーセントという値は、"異常"なんです。
 なぜ、このことがおかしいと声があがらないのか不思議でしょうがない。しかし、これはある意味当然ともいえるんです。というのは、"放射線の影響かはわからないから、実は隠してみなさんを安心させてきました”そうはっきり言えばまだ分かる。しかしそうは言わないのだがら、おまえは一体なにものだ、こうなっちゃう。こうした事態がいま、実際にこの福島で起きているんです。」

 2012年11月23日、じぶんは福島駅近くのホテルの一室で120人ほどの参加者にまぎれてこんな言葉を聞いていました。
 話していたのは福島共同診療所の所長をつとめることになった松江医師でした。12月の開設にむけたレセプションパーティに、じぶんは招待されていたのでした。
 その日からちょうど一月さかのぼって10月23日、県民健康調査での結果を受けて、福島県庁前ではじめての抗議行動が行われていました。じぶんは、絵のプリントを持参し、ひとりで参加いたしました。呼びかけ人もふくめた16名の人数のうち、幾人かがこの診療所の建設に関わっている方でした。 2011年秋に、じぶんが南相馬市の市議に200枚のN95こども用マスクをひとりで届けにいった際にお会いした方もそのうちの一人で、到着してあいさつをしていると再会にきづいて、「はじめまして、じゃない気がするな。」声をかけてきました。この診療所の話を聞きました。

「二年に一度行うと決められた県による健康調査では、あまりに健康状態を把握するにはスパンが長すぎる。
 心配を抱えた住民の方を安心させるために、ふた月、半年ともっと短いスパンでいつでも甲状腺の診療を保険診療として受けられる施設を作ろうということになった。協力してくれる医師を募ったが、結局、いま福島に来ている国立癌センターの松江さん以外、福島の医師はだれも協力してれくれない。そこで全国によびかけると、7名のお医者さんが参加してくれることになった。それぞれの診療所をお持ちだから、週に一度、かわるがわる福島に来ていただいて、診療していただく。必要な設備を整えた。3億は必要なのだが、今2700万ほど一般のカンパにより集まっている。―」
 話を聞くと、福島の医者はみな口をそろえて被曝による影響はない、住み続けてだいじょうぶ、そう住民に伝えているのでした。目の前の医者がみなそう言う限り、被曝に対してみずから防護することがしずらい、発想をもつことすらがむずかしい、被曝について講習会をひらいても、あまり人入りはないんだ―。自分が向かった福島市の現状を委員の方はそう言いました。

 ―福島共同診療所―。
 この診療所は、経済的な理由から福島にとどまることを選んだ住民に、保険診療として甲状腺の検診を受けられることを目的とした診療所です。
 こう書いてしまうと、なんの変哲もない診療所に見えます。しかし、ここで働く医師は、7名、みなもともとは福島県外でクリニックを持っている医師たちです。この診療所を建てようと尽力してきた診療所建設委員の方に話を聞くと、福島県内でこの診療所に協力する医師は、結局誰一人、現れなかった、と言います。看護婦さんは、京都からやってくる女性です。
 じぶんが招かれたこのパーティの終わりに、8名の医師、看護婦さんが壇上に登り、これからの活動に対する声援を参加者から送られる図は、さながら出征式のように自分には見えました。

 なぜでしょうか。

 福島で、行政と医療関係者による被曝の隠蔽と、悪質な調査が行われています。




 

かつて、日本に原爆が投下されました。


参考映像-肥田舜太郎インタヴュー-(IWJ)

 

爆弾からの熱線を直接あびてたくさんの人間が死んだのですが、爆発のあとに残った放射能をあびて、多くの人間がなくなりました。
 じぶんの右翼だった父方の叔父は、大阪に当時いました。新型爆弾が落ちた、そのはなしを聞いて、事故の翌日、広島の爆心地に向かいました。そして、まもなく死にました。
 事故当時、広島に28歳の若い軍医がいました。広島に駐在していたのですが、たまたますこし外れた場所へ、若い女性の診察に向かっていました。
 爆発が起き、診察していた家屋が吹き飛び、生きのびた彼は勤務していた広島の中心市街にあった病舎にもどります。
 そこで、地獄を見ました。

 それから彼は、熱線で喉まで焼かれ、腐り、腐臭をはなつ人の姿をなくした人間を診てゆきます。できることは、ほとんどありませんでした。闇の中で転がる無数のその群れのなかを、どうにかして目をあわせないように巡回したと言います。すべての伝える手段をなくした被爆者たちに残された最後の方法は、視線―。さけつつも目があってしまったその視線のすさまじさを身に受けながら、わずかな水を口にもってゆく、すると、人間の目にもどった、そう彼は語っていました。
 彼の名を肥田舜太郎、と云います。
 肥田医師は、熱線をあびた被爆者を見る間に、奇妙な死者があらわれはじめたことに気付きました。爆心地から離れた福山にいて、爆発の翌日に広島にやってきた男が、体調不良を訴え、彼のいる場所に来て横になりました。そして、死にました。「わしは、ピカはあびとらんけんね。」そう語っていた壮健な兵卒が死ぬのを見たのが放射能による被害者のはじめでした。熱が出る、倦怠感におそわれる、風邪のような症状ですが、死ぬのでした。するうち、肥田自身も原因不明の発熱におかされます。その話を、事故後久留米大学からやってきた40代の先輩の医師に話すと、彼はいいました。
―ここでおまえを死なせるわけにはいかない。おまえは、数少ない原爆を直接見てきた医師だ。 ―
―おれの言うことをなんでも聞くか。―
―、、、。―
―おれが思うに、放射線は血液、造血機能をやっつける。だから健康な人間から新しい、新鮮な血をすこしづつおまえの身体にいれて、造血機能が回復する呼び水にするんだ―
―どうだ。やるか―。
 肥田はその申し出を受けることにしました。
その日から、言葉通りに男が連れてこられ、5tの血を抜き取り、消毒もしないまま、肥田のからだにいれてゆきます。日に4回。それを5日間。
 肥田の発熱は止み、死を逃れました。
 
 敗戦になり、連合国による支配下に日本は入りました。司令官のマッカーサーは、戦後すぐ、有楽町の現在の電気ビルに外国人記者にたいする声明を発表する施設を作りました。外国人特派員クラブです。
 そこで部下にこう説明させました。
―原子力爆弾の爆発により直接被害を蒙った人間以外、誰一人その後の影響で死んだ者はいない―。
 また、マッカーサーは日本の各省の局長を呼び、その場で日本に対する命令を伝えました。そのなかにこんな内容があったといいます。
 原爆被曝者、そして医療機関の医師、学者にむけての声明。

 そこで語られたのは、広島長崎原爆の被害について見聞きしたことの、一切の他言禁止でした。それは家族夫婦間にも及ぶものでした。そして、医療機関の医師、学者に対しては、みずから個人的に被曝者を診療することは許すが、その結果についてのいかなる医師学者同士の集団討議、学会への論文投稿、検討の禁止。
その禁止の理由はこうでした。

「これは、理由はおまえの受けた被害は、それが痛みであれ、やけどであれ、病気であれ、怪我であれ、その全てはアメリカの軍の機密である。」

 日本の被曝研究は、ここで楔を打たれていました。
 戦後、肥田は重度の倦怠感を訴える被曝者への診療を続けたかどで、共産主義者として要職から追放されてゆきます。この男の経験した出来事をつたえる新聞、雑誌は皆無でした。ここで研究の道を閉ざされた日本の医療は、2011年にいたっても、住民の健康を守る情報を提供することができませんでした。原爆の被害を除いては、チェルノブイリ、スリーマイル、いずれも他国で起きた事故でした。本来は被害当事者でありながら、被曝についてなにも知らない日本の研究者は、政治的につくられた放射線被曝の空白をウクライナに専門家を派遣して埋めようとしました。その一方で、原爆後の放射線で体調に異変をきたした者は、アメリカの機関により調査されてゆきます。

 ―彼らは、調査はされますが、治療はされませんでした。



参考映像-矢ケ崎克馬琉球大学名誉教授インタヴュー-(IWJ)

 

 どう健康が害されてゆくのか、その過程を記録するために、彼らは呼ばれ、なかには遺体を提供しました。しかし、かれらになにが起きているのかは決して、伝えられませんでした。戦争が終わり、熾烈な核兵器開発競争に世界の大国が没入してゆくなかで、大国は一般市民に核の存在をどう肯定させるか陰で腐心します。
 その先頭にもちろん米国の政府はあり、原子力発電を次世代のもっとも有望な発電であると喧伝し始めます。その喧伝のうえで、原子力発電が産む放射能の危険性はなるべく知られてはいけないものとなりました。それまでACRPと称していたアメリカ放射背防護研究会は、国際的な組織として原子力発電を後ろから支える組織に作りかえられました。その過程で、放射能をからだのなかに取り入れてしまうことによる内部被曝の研究チームを、チームごと削除します。
 こうして、国際放射線防護委員会ICRPは発足しました。原爆後の被曝者の実体を知りながら、放射能の人体に及ぼす影響のデータは、国際的にも影のなかにしまいこまれることになりました。
 
 こうした世界情勢のなかで、肥田は世界でも数少ない医者として、放射線被曝患者の症状を見続けていました。
 戦後十数年たってから、突然立っていられないほどの倦怠感に襲われる患者が現れました。彼らは、原爆投下後しばらくしてから家財をとりに数日間広島に入った経験のある者たちでした。彼は、この極度の倦怠症状を、原爆後に遺された放射能によるものだと断定、国際社会に訴えました。この病は、「ぶらぶら病」という名で認められます。これは、そうして倦怠感に襲われた患者が、観たところの異常もないのに寝込んでいる様子をみて、肥田の同僚が言ったものでした。

―あいつは、あまりに放射能を心配しすぎて神経症になったのさ。それでどこも悪くないのに、ぶらぶらしている。―

 肥田の存在を公にしない一方で、こうしたアメリカによる研究に加担することで延命をはかった日本の研究者たちがいました。その研究者たちが所属したのがABCCという機関であり、戦後しばらくして放射線影響研究所(放影研)という名に変わります。そこで働いていた研究者は、原爆被害の当事国の学者として、原爆後の放射能の影響はなかったとする発言を行い、大国の思惑を下支えしました。この学者を師とする一派は時代が下ると、チェルノブイリ、スリーマイルのいずれにも事故後関わり、放射能の影響はないとする重要な役割を国際的に果たしてゆきます。
 そしてその流れを組む学者が、3.11直後の福島に、福島県知事の要請にしたがい、送り込まれまれていました。
 彼らは、おとながそれまで年間に浴びる限度の20倍の値まで安全であると方々で説いてまわりました。こどもの影響について、けっして触れることはありませんでした。
 そのうちの一人、山下俊一長崎大学教授は、事故後2011年7月に、福島医大副学長に就任、地震が理事長を務める甲状腺学会に通常の検診を行わないよう通達を出しておりました。甲状腺の異常は、こどもにはほとんど見られない症状です。放射能の影響は、こどもの甲状腺にもっともわかりやすいかたちで現れます。福島県では、それまで行っていた通常の甲状腺診療を独自におこなう医者はいなくなりました。福島共同診療所は、この巨大な歴史をひきずった体制に医療サイドから挑むものであると言えます。
 
 ―診療は行わない、しかしそこにいても良いと言い、とどまらせる。逃げることを行政として援助することもない。しかし、データは把握する―。

参考映像-山下俊一福島県健康リスクアドバイザー喜多方プラザ講演-(CNIC)

 

かつて原爆後の被害者に米軍がおこなった悪質な調査が、福島で今、政府主導で(もっと大きな思惑がまたからんでいるのかもしれません)、繰り返されています。テレビを見ていてもわかりません。ひそかに福島で進行するこのことから無関心でいれば、それはこの巨大な黒い思惑の一端にあなたが連結されることを意味します。巨大な心臓から延びた人造の動脈を、あなたが切ることを、わたしは期待します。



―「あたしの娘、去年(2011)の6月に結婚する予定だったんです。」

「それが事故がおきて、(手で切る動作をした)、破断です。」
「結婚相手がきゅうに断りをいれてきた。」
「―ええ。県外のひとだったんです。」
「それで、娘は自殺未遂しました。」
「ショックがまだ残ってたんでしょうね。」
「あたしがこどもの頃―、親が広島や長崎の人間にはちかづくな、って言ってましたよ。」
「放射能がウツる、ってね。」
「それが、あたしたちがおんなじ目に遭うなんてね―。」
 
 2,012年11月、福島のホテルは清掃がゆきとどいていた。空間線量は0.08μ毎時だった。東京の自宅よりも低かった。しかし、一歩を外へ出れば、0.6台だった。町に秋の風に散った欅の葉が堆積し、それらは歩道橋の手前にビニール袋に入れられて積まれていた。ホテルの廊下でたばこを吸いに出ると、郡山市からきた女性が来て、煙草に火をつける―。ほかにはだれもいなかった。
彼女は、彼女のむすめのことを語りだした。

じぶんはこわれた花嫁と花婿を描きこむことにした。