「「隠蔽の獅子舞(開発という名の)」

900mm×1300mmを7枚

2006

 

下北の開発計画が、どうにも気にくわない。

じぶんの好きな町の個性が、まるで、なくなってしまうように思う。

堆積した時間が造りだした個性があって、

下北の町の個性を気に入っている。

大きな道路がないこと、闇市の後が残っていること、小道がおおいこと、大店鋪がないこと。

しみたれた、とも言えるこの町の味わいを、残してほしいと思う。

どこでも同じような町は、じぶんを狂わせる。

過去のぬぐい去られた町は、じぶんの神経を脅かす。

平板な町に、じぶんは言いしれぬ脅迫を感じる。

放恣にいることが、できない。

 

なにか、おかしい。

 

そろそろ、堆積した時間を活かす方法が、あって欲しい。

過去と現在を平和裡に結びつけるやりかたがあって欲しい。

 

誰かになろうとすることは、じぶんを脅かす。

しかし結局はじぶん以外の誰かになることは、できない。

じぶんであったことを隠ぺいすることは、やはり切ない。

もしそうであろうとするならば、その水面下の自意識のゆがみをぎりぎりの緊張で隠蔽し続けなければならない。

四角い、透明なガラスの箱に入れられた粘土を、上から圧迫する。

ぐしゃり、こころがつぶれる。

圧はかけ続けられる。

その圧迫で、その箱が、割れてしまうかもしれない。

町を歩いていて、

じぶんの身体に生じる脅迫を泥水の上から大きさを測ってみるようにして捉えると、

そんな質のものなのである。

その脅迫を薄めようと、享楽を浴びても、けして、それは解決しない。

もともと、できないことであり、切ないことなのだ。

平板な町に、そんな誤謬をふくんだ精神を感じ、そしてそれが伝播してくる。

過去への発想をなくした、幽霊のようなものにならなければいけないのだが、

体質として、なれない。

幽霊になって、享楽に無心にまみれることが幽霊であることを納得させる仕組みなのかもしれないが、

できない。

幽霊になれず一人孤立して、

結果、幽霊にとっての幽霊にじぶんがなったように思う。

じぶんが幽霊なのか。

巷が幽霊の群れなのか。

狂気。

 

 

じぶんの泥水のなかの脅迫が親和する場所があった。

戦後の闇市の痕だった。

波トタンの屋根が継ぎはぎにされ、人足になめされた石畳が光っていた。

そこが下北沢食品市場、というのはずいぶん後になって知った。

駅前に抜ける小道のひとつを出ると、頭上の壁に看板がかかっている。

それに気づくほどじぶんには余裕がなかったのである。

二十代のはじめ、脅迫が刃のようになってさいなまれていたじぶんは、

どこへ行くにも白日に灼かれるようにして歩いていた。

さいなまれて歩いて、闇市痕の翳(かげ)のなかにまぎれる。

八百屋、古い履物屋、乾物屋、猫のいたせんべい屋、魚屋、絵の具屋、若向けの服屋、飲み屋。

埃っぽい闇のなかに、古い店があった。

どうすることもない。

ただ暗がりに入って、店の間を抜けてゆく。

暗がりに入った瞬間の、一段冷えた温度。

こうもりが暗がりのなかに還るように、その暗がりにじぶんのなかのなにかが親和し、

馴染むのを感じていた。

そして、抜けてゆく。

抜けてゆく時の、先に見える白々と光る外の光。

もはや整理のつかないような場所で、

暗がりのなかに白菜など野菜の入った箱があり、

漬け物の入った白い樽があった。

そんな物の間に、あかね色の古びた、錆びきった丸椅子に年とった肥えた店員のおんなが座っていた。

線路との境の壁に八百屋のひとの趣味なのか吉永小百合の写真がべたべたと張ってあったように覚えている。

履物屋の店には、天井から鈎が降ろされていて、運動靴がぶらさがっていた。

開けはなしになったせんべい屋には煌々と電灯が光っていて、木のガラスケースのなかに品を入れていて、

その上にたいてい猫が一、ニ匹のっていた。

絵を描きはじめたじぶんは、そのなかの画材屋で絵の具を買っていた。

後年娘夫婦に店のきりもりを任せるまでは、

かつて絵のモデルをしていた、鳥のような、うつくしい老いたおんなが店にいて、なにくれと教えてくれた。

画材のある三和土があって、上がりがあってそこに座っては、絵の具の値段を値段表をみて確かめたり、

奥の古い木造の流しで湯を湧かしたりしていた。

そんな用を抱えていた時もあったが、

しかし、その用もそうやって暗がりに入ることの方便なのでもあった。

あの暗がりが、残っていってほしい、と思う。