「多様性の樹2-赤」

98×90mm

2006

ポストカード化
sold to Hitomi Kumamoto (Japan) 2010

 

 

 

昭和末年当時過ごしていた喜多方の中央商店街はそれはさびれたものだったが、

それでもたくさんの店が並んでいた。

記憶のなかにのこっている姿では、

知恵おくれで、「にんじんぼうや」と呼ばれていた中年の小柄なおとこがよく立っていた

四つ角からその商店街がはじまる。

 

喜多方の中心市街を東西に抜けてゆく道路と、

より南部の塩川町から山形県境の山村、熱塩加納村へ通じる南北の道が

ぶつかるその四つ角には、

記憶では、花屋、電気店、衣料品店、靴屋が向かい合っていたようにおもう。

その近辺は、より郊外(そのころの)の西側を通過していた幹線道路に向かう車、

商店街に買い物にやってくる車があり、そこそこに車通りがあった。

その四ツ辻の角に、

ひとりの小柄なおとこが立っていることがよくあった。

手を後ろ手に組んで、車の行き過ぎを眺めていた。

市の南部に越してきて、はじめてそのおとこを見た時には、

とくに、なにもおもわなかった。

知的な障害があるらしいことだけはわかった。

ただ歩いてゆくこちらを、

黒めがちの目でじっと、ものいわず見つめる。

見送る。

その見つめかたが強かった。

おれが行き過ぎるまで、視線を感じていた。

年は、中年のように見えた。

木の、痩せた古木のような肌の顔だった。

髪が短かった。

疲れたジーンズに、半そでのシャツをズボンにいれて着ていた。

 

「うわあ」

「にんじんぼうやだ。」

いつぞやの、夕暮れにはまだ早いある晴れた夏の日、

その四ツ辻を学校から帰る友四五人と歩いていると、

そのおとこがいた。

おとこを見て、連れがいきなり大声をだした。

「うわあ」

「にげろお。」

ほかの連れも囃したてるようにいって、一散に駆けだす。

先をゆく者のランドセルについた細かいキーホルダーがじゃらじゃらと荒く揺れた。

おれも、わけもわからず、つられて走り出していた。

後ろをみると、

そう言われて、そのおとこが駆けだして追って来ていた。

逃げた。

 

喜多方のその近辺に生まれて育ったこどもたちは、

そのおとこをからかって育ってきたのだった。

おれは市の北部から引っ越してきて、

それまではそんなおとこがいることも知らず、

またそのおとこを囃したてて遊ぶこどもがいるなどと知りもしなかった。

そうしたある意味での文化圏から外れて育ってきたおれだったのだが、

それ以降、友といて、そのおとこと出くわすと結局、いつも鬼ごっこのような

格好になった。

 そうして逃げること、それ自体に加わるのが

またどこかじぶんの孤独な存在を慰撫するような、

なにか歪んだこころよさを感じさせるところがあって、

おれもそうしてからかい、逃げる、という輪のなかへ馴染みこんでいった。

おとこのほうもおとこのほうで、

そうして囃したてるわれわれを走って追ってはくるのだが、

そこまで執拗でなく、

息切って走り抜けた先の角をふりかえると、もう姿はなかった。

おとこが年老いた母と暮らしていたらしい塗物町の裏手にあった白い平屋の家の前に出て、

やはり手を後ろ手に組んでさびれた往来を眺めていると、

ちかくの第一中学校の女生徒の一群れが通りがかり、

遠めにおとこを見てあざけるような声をもらすことがあった。

そんなときにはおれたちにするように同じように追いかけるか、

そのはらいせにじぶんの下半身を露出したりして失笑を買っていた。

それ以降、ひとりで歩いていて、

遠目のその四ツ辻にそのおとこがひとり立っているのを見ると、

追われるのではないかと内心不安になるのだったが、

そうして目をそらすようにしてひとり歩いてゆくおれを

ただそのおとこは、行き過ぎる車と同じように見つめて、

そして、見送るだけだった。

結局、そのおとこのことばを聞いたことがなかった。

 

 

そのおとこの立っていた靴屋、花屋のある四つ角から北へ歩く。

すると、

すぐのところの左手にパチンコ屋。

それからしばらく両側に、かつてはなにかの店をしていたのか知れないが

古いような民家が表口をカーテンでいつも閉ざしているのがならび、

そのならびの中の右手にメリヤス、しばらくいって左手にすぐ出来てつぶれたパン屋があった。

ヨックモック、という店だった。

 

まだあたたかい、ミルフィーユ状の生地のなかに板チョコの入った菓子パン。

焼きたての、やわらかい白い生地にソーセージの入ったパン。

揚げたての、カレーパン。

ちょうど学校が終えて通りがかるころに焼きあげるので、

サッカーをして腹のへったところのわれわれの、テルちゃんが金をだしてカレーパンか

チョコパンを買うのだった。

カレーパンは100円だった。

チョコパンは50円だった。

買ったばかりの、焼きたてのほのかにあたたかいチョコパンを、

通りのわきのガードレールに腰かけてふたりで幾度かわけて食べた覚えがある。

はじめてその作り方のチョコパンを食べた。

また、あつあつの、油にまみれた香ばしいカレーパンを、

ふたりでわけて食べた。

金のない日には、30円ほどで(いくらか忘れてしまった)使い残しのパンの耳を袋に入ったのをもらって

(店員の姿は記憶にない)

なにもつけずに二人で生のままの耳を、もくもく喰いながら歩いていた。

そのベーカリーは、

喜多方にはめずらしく、こじんまりと丁寧な仕事をしていたお店だったのだが、

やはりいつしかつぶれてしまった。

 

 

 

パン屋と道をはさんで向かいあうのが、

市内に二つしかなかったくだらない品揃えの狭苦しいレコードショップ。

演歌か、テレビの伝えるようなどうしようもない物しかなかった。

その二階にカワイピアノ教室があり、その教室の脇に、うす暗い細道があった。

 

その細道は、

ならびのスーパー、ライオンド−の裏側にある来客用の駐車場につながり、

さらに二小へむかうカワイ家の蔵の間の道につながっていた。

ライオンドーの、窓一つないコンクリートの壁に沿って大きな軒の下を歩くようなその道は

ピアノ教室の裏にあった小さなビルとの間道でいつもうす暗く、

音が跳ね返るような固く冷えた道だった。

その道には、

すこし荒れたような影がしみつくようにして澱んでいたのだが、

その道にやってくると、おれはなぜだかいつも自分がやすらぐのを感じていた。

ランドセルをがちゃがちゃいわせて下校してくると、

暗がりに、

頭上の教室で弾かれているピアノの、こどもの幼い音がもれてきて、

硬いコンクリとセメントに響いたのをおぼえている。

その音を聞いて、商店街の日なたへ出てゆくのだった。

 

 

 

 

ライオンドーの対面に、セメントのたたきを工場にしていた軒の高い塗装屋。

塗装屋につづいて末広町へゆく道の角に眼科、だったろうか。

ライオンドーの店前の端に一本のすずかけの若木があり、その根元に公衆電話のボックスがあった。

ボックスの隣に、おんなのこが好むようなすこし洒落た文具を取り揃えていた文房具店。

そこではあまい匂いのする消しゴム、おもちゃのようなシャープペン、ノート、筆箱、匂いのする玉、

ノートに挿んで使う透明な色のついた下敷き、そんなものを売っていた。

文具店のならびに、一本のヒマラヤ杉が駐車場にあった歯医者。

つづいてゲームセンターを兼ねていたパーラーエガワ、

酒屋。

市役所へ向かう通りを挟んだその向い、左手に縫い物全般をあつかっていた手芸店。

つづいて夢二の絵のあった、史跡の真っ黒の木造りの古旅館。

対面右手の三叉路の角のはじめに時計屋。

ここから両側にアーケードがはじまり、生け垣の鉢植えがならんでいた。

ここから店のならびが本格的になってきて記憶がまだらになる。

右手の時計屋の並びにすこしさびれたふつうの文具店兼本屋。

駐車場。

骨董屋。

古旅館から数軒並んでいた閉まった商店のならびに八百屋だったろうか。

それから記憶にない店が末広町へゆく小道までつづき、

小道からカーテン屋などあやふやな店が数軒ならんで

それから左手にひまつぶしによく使った比較的おおきな本屋。

末広町への道から出て、商店街をわたって正面は御清水への小道。

御清水へはいってゆく道から右手の角には

夏になると塗物町の祭り囃子が練習していた、蔵をかかえた屋敷の駐車場で、

その脇に化粧品店。

まんじゅう屋。

 

ピアノや公文の塾をさぼるときに時間をつぶしていた本屋の向いの右手に、

古いちいさなまんじゅう屋があった。

なにと書いてあったのか、いまでは思いだせぬが、

屋号かなにかうたい文句を記した古い木綿の旗竿を店先にかかげたその店で、

いったいいつからやっていたのか、

蒸した和菓子も扱っていたのだが、ひとつ十円のちいさなまんじゅうを売っていた。

茶の薄皮のものには白の漉し餡がはいっていた。

白の薄皮のものには黒餡がはいっていた。

店先にはいつも、

豆を蒸かしたり餅米を炊いて菓子を蒸すどこか胸のつまるようなにおいのする湯気がたっていて、

湯気のたちこめる店の暗いなかで十円をだすと、

古い木造りのガラス戸の向こうに湯気をあげる使い込まれた蒸籠が積まれていて、

そこからおばさんが手づかみでまんじゅうを茶色の油紙の包みにいれてくれたのである。

ひとつ10円のそのあたたかなまんじゅうは金のないこどもにはうってつけで、

2、3個頼んではおりおりによく食った。

ほくほくとした出来たての白餡のものは、

割ると、湯気がたちのぼった。

その湯気のたつまんじゅうはほのかにあまく、

それはたいそう旨かった。

 

 

 

これ以降の店の並びは、正直記せるほどはっきりと覚えてはいないのである。

ただ、そのまんじゅう屋からもうすこし駅から離れてゆくと、

ちょうど商店街の中央あたりに、

白壁の門構えのあるむかしの名主かなにかの家があり、

並びの桐の木で作った下駄屋のわきあたりに

喜多方に二軒しかないマルヤという古いおもちゃ屋があった。

 

おもちゃ屋はもう一つ、

商店街をまっすぐゆきすぎた先にプラモデルやファミコン等のゲームなど

比較的あたらしいおもちゃを扱うおもむきのない店構えの店があったが、

マルヤの表のガラス戸のなかには、

記憶にはおもいだせない古い単純なつくりのおもちゃが数多く並べてあって、

それぞれが金色やあでやかな色を発して照り輝いていた。

それは日本人形や、鎧かぶとの細工、たいていは電気では動かないような

昔のこどものおもちゃだったのだが、

それらの金色の光りというものも

なにかこちらの蟲惑的な期待をふくらませるように思えて、

おもちゃ屋といえばやはりマルヤ、という印象がつよい。

そのマルヤでは

親の金をさんざん使い込んでファミコンのソフトを買ったが、

クリーニング屋のヒベシとふたりで

ドラゴンクエストの三番目を買うためにたった二人でひとのいないなか

夏の夜に徹夜したことがあった。

テレビのニュースを見ていると、秋葉原でそのゲームを買い求める客が徹夜してならんでいる、

というので大騒ぎしていた。

喜多方での発売日は、東京の一週遅れだった。

漫画雑誌の少年ジャンプも五日くらい遅れて売っていた。

ドラゴンクエスト3は入荷する量もわずか、求めるこどもの数が多すぎるので、予約制にしても

後のほうの子がいつ遊べるのかわからない、

どだいさらに入荷するのかどうかわからないような感じで、

予約制は採りいれられず、結局早い順で売るということになっていた。

電話で確認したのだ。

ヒベシはガリ勉だったが、ゲームへののめり込みかた、テレビに影響されやすいところで

おれと意気投合して、前日の夜、10時からアーケードの下徹夜して待ちはじめた。

閉じたシャッターの前で、ふたりでにやにやしていた。

ほかに、だれもいなかった。

通る者もほとんどいなかった。

喜多方は田舎なので、夜の8時にはたいていの店は閉じていた。

ただただ煌々とアーケードの光が灯るあいだを、思い出したように車が走ってゆく。

ふたりで待った。

夏だったが、夜は相応に冷えた覚えがある。

アーケードの光が落ち、夜が回り、たまに通りを車が駆け抜けてゆく。

空が、蒼い朝にかわってゆき、霧があらわれる。

ずいぶん濃い霧だったように思う。

霧がでて、朝露になるといっそう冷えがますようだった。

あさの8時くらいになって、

ほかのこどもが並びはじめた。

開店は10時だった。

開店をむかえ、シャッターが上げられるころには、長い列ができていた。

10時になり、店を開けて出たおやじはその列を見て、

「うわあ、こりゃたいへんだな」と言った。

先着順だった。

だから、われわれはどう転んでも買えるのである。

ただただ待ち遠しさと、徹夜をやりきった気持ちでうきうきして喜んでいると、

「そんじゃあくじ引きにします。」

とおやじが言った。

意味がわからなかった。

待ったこどもの数があまりに多く、しかも手に入れられるこどもの数が逆に

あまりにも少ないのだろう、とそのことぐらいはわかった。

わかったが、一転して不安な気持ちが興り、そしてその不安に支配されはじめた。

おれはくじ運に弱い、という思い込みがあった。

それまでのもろもろのくじ、と名のつくものに当たったためしがなかった。

逆に、良くないくじには、なぜこうも当たるのか、と思うほど当たるように思い込んでいた。

ねらい撃ちされているように感じていた。

 

そんな、ばかな。

 

ふいにくじ引きをすることになって、店のおやじが奥さん、ばあさんをよばわり、

大急ぎで奥の上がりの畳の上で紙を折ったりして準備している。

じぶんが買えなくなることは必定のように思えた。

その準備が終わると、

「えーと。」

「いまから、この小さな折ってある紙に当たり、と書いてあった人は買えます。」

「なにも書いていない紙、これを引いたら残念、次の機会。」

「これから順番にこの箱から一枚ずつひいてってください。」

というおやじの説明がなされた。

その説明がざわつく列の後ろへと伝わってゆくころに、

父親がカメラを持って取材にやってきた。

ドラクエ騒動、喜多方にも。

そんな日状の些事を記事にするのがどうやら地方記者の仕事らしかった。

金色のおもちゃの群れ、プラモデル、人形の間をゆき、

奥の上がりのところまで進んだ。

おやじは奥にいて、手前に奥さん、ばあさんが立ってそれぞれ箱を持っている。

ヒベシがばあさんの差し出した箱のなかに手を入れて、ごそごそやって、出した。

開くと、

「あたり」

だった。

当たったらヒべシはよろこんで一回りくらいするかとおもったが、

ごく冷静だった。

次。

おれの番だった。

不安に完全に取り込まれながら手を入れて、出した。

三角の紙を開くと、

なにも書いてなかった。

「ああ。ざんねん。」

奥さんが言った。

釈然と、できるはずもなかった。

しかし、やはり運が悪かった。

胸のうちに、不満の雲が湧きたった。

「ヒベシ、なんで当たったの。」

うらむようにいうと

耳打ちして「箱のなかで紙ひらいてみた。」

と言った。

 

(そんなばかなはなしがあるか。)

(なんて、こずるいやろうだ。)

(つきあうのはもうやめだ。)

思った。

また

(しかしおれは、)

(なんでなかで見なかったんだろう。)

そうも思った。

自分の愚直さを含めていろいろなものを、悔しく、呪った。

 

 

 

店から出ようと向きをかえると、

「それは」

「あんまりじゃないですか。」

カメラを構えていた父が言った。

「前の日から並んでたんだから買わせやってもいいんじゃないんですか。」

そうおやじに言うのだった。

取材に来た記者がそういうのである。

おやじは父親を見ていた。

恥ずかしさに、汗がにじんだ。

(いいよ)

(やめてよ。)

そう言いたかったが、じぶんにも欲があった。

だまってその様子を見ていた。

すると、おやじは折れた。

おれは特例で、買った。

ずいぶんなさけないようなはなしだった。

 

 

 

マルヤの向かいに、

新しいライオンド−というスーパーがあった。

店前と、二階に比較的おおきな駐車場を抱えた中規模のスーパーだった。

家から自転車で五分もかからぬ距離にあったそのスーパーが

家の物資の調達場所であり、

母は毎日夕になると自転車をこいで食材を買いに行っていた。

店前の広場は、夏の盆に商店街を借りきってえんえんと往復して行う庄助踊りのとき、

紅白で飾られた高いやぐらが組まれ、

民謡の歌い手がその上で会津磐梯山だけをかわるがわる朗々と唄う場所だった。

こどもだけで参加するものでもなかったのか、

その盆踊りに同級の子の顔をみた記憶はなく、おとなのおんな、おとこばかりが浴衣を身にまとって

列をつくって手足を動かしながらゆっくり動いていた。

誘ってくれる友もなく、

40代になったばかりの浴衣に着替えた母に連れられてどこか恥ずかしさを

抱えながら列に加わったのを覚えている。

庄助踊りの踊り方を知らぬ母と父が、

列に加わってまわりの者の身ぶりや手ぶりを見ながら

はにかんだような顔で不器用に手を動かしていたすがたを覚えている。