「犬」

1130×920
2001

 

あれは、夏の日だったろうか。

小学校の4年くらいの夏休みだったかもしれない。

 

熟れすぎた果実のような午後のことだった。

末広町の家でごろごろとしていると、

そとで、雷がなった。

母はどこかへ行っていた。

父は取材に出ていた。

(夕立ちがはじまるんだ)

そう思い、おもてをのぞいてみると、

おもては、

これからやってくるであろう暴発的な夕立ちの雰囲気にみちみちて、

すこし薄暗く、

またどういったかげんなのか、

大気がまるで硫黄を吹いたような黄土色をしていた。

(なんておかしな色だろうか)

雨露を飽和状態までためこんで、

大気が破裂しそうになっている、そんな大気だった。

(火薬のにおいがする空気だ)

(『キナくさい』、というのは、たぶんこんな様子のことをいうにちがいない)

おれは、そんな大気をまえに、うきうきしはじめたのである。

駅前通りには、

人通りが絶えていた。

家の前の久下酒屋、クリーニング店、風呂屋には

まるでひとの気配というものが失せて、

父方の祖母の毎日通っていた風呂屋の暖簾のむこうの闇が、

いやにがらんと見えていた。

蝉が啼いていた。

右手の軒下に、学校の夏休みの課題の朝顔の鉢植えがあった。

すぎてゆく夏そのもののような、

あざやかな青と赤の花をつけて朝顔は無心につたを伸ばしていた。

もたれていた玄関の木の柱には、

父がこしらえた木の新聞受けがかかっていた。

学校の工作の課題で、新聞受けを作ることになったのだが、

家の仕事が新聞記者だったので、

父は配達の人間に気をつかって真夏の炎天下、

ほとんどおれをほっぽらかしにして

もっぱらひとりでのめり込んで隣の駐車場で木を挽いて作ったのだった。

上半身裸になって夏の陽のしたで過ごしたせいで父の背中は翌日灼けて、

ひどく赤くなって薄皮がむけていた。

出来てみると、

新聞受けの正面の板のところに

『ごくろうさま』と、木がくりぬかれていて、

おれはそれが気に食わなかった。

雷が轟いて、

大気が、黒ずんできた。

おもてが、かきくらしたように暗くなったかと思うと、

大粒の雨がおちてきた。

びたん、びたん、びたん、と

なにか目に見えぬ鷺のような大鳥が跳ねまわるように

雨粒のひと粒ひと粒が白い鋪装の路面に落ちて黒い痕をのこしてゆく。

それがどんどんと数を増して密になってゆき、空がやけをおこしたかのような夕立ちになった。

砂に水がしみこんでたつのか、どこか胸がつまるような思いを興させる雨の匂いのなかで

雨の玉が、掌につかめるような勢いの土砂降りを見ているうち、

こうしてはおれぬ、

玄関のたたきに転がるサッカーボールを手に取ると、

おれは勇んでおもてへ飛び出した。

 

家のむかって右隣は、

軒続きで「平安互助会」という冠婚葬祭の互助組合の事務所があった。

後年、祖母が死んで、葬儀の手配を頼むことになる

その事務所のさらに右隣に、父が新聞受けを作った駐車場があり、

父が乗っていたスバルの銀色の臭い乗用車もその駅よりの端に駐車していた。

雪残りの春にはその端の日陰にふきを結ぶ、

車10台ぶんくらいのそのスペースで、

おれはよくボールを蹴っていた。

兄が東京へ出てゆくまでは、

ときおり年の離れた気むずかしい兄を誘って、

ときには時間の空いたサッカーを知らぬ父を誘って、

運動のできぬ母も誘ったこともあったかもしれない。

ともにボールを蹴った。

たいていは夕方だったような気がする。

夕になるとどこからかこうもりが空にあらわれて飛来していた。

30分も蹴っていると、

夕闇にまぎれてボールの軌道が見えづらくなる。

それでおひらきだった。

すぐ脇をはしる駅前通りの道路にボールが飛び出して、走る車を急停止させたり、

ボンネットに跳ね落ちたり横窓に突っ込んでゆくのにはらはらしながらも、

兄はおれにフェイントを教えてくれた。

 

 

駐車場の端から、インステップでおもいきりボールを蹴飛ばすと、

ボールはすっとんで薄い銀色の波トタンで鋪装された互助会の壁に当たった。

壁に当たると、すごい音がした。

ばかんッ、といって、

トタンはボールの形にへこむのである。

それよりも勢いがつよいと、

ばかんッ、といったあとに、

ばらばら、と土が崩落するような音が続いた。

トタンの内側の漆喰がくだけてぼろぼろ崩れてゆくのである。

ひとりのときは相手がいないので、いきおい壁にむかって蹴るほかない。

そんなことには頓着せず、遠慮もなにもせずボールを壁に蹴りまくっていると

互助会の人間がたまらず出て来るのである。

「おめえッ」

「そんなちからいれて蹴っぽったら」

「かべぶっこわっちまうべやッ」

「やめろッ」

えらい剣幕でおっさんに怒鳴られるのだが、

どうしてもやめられず、壁はべこべこになっていったのである。

 

 

 

 

雨のなかへ出ると、

思ったとおり、雨粒がつぶてになってからだにぶち当たってきた。

路面をびたびた雨が叩いて、はじけている。

(なんて、たのしいんだ)

どうしようもなく、愉しくなってくる。

あっというまに全身が濡れてゆく。

雷がとどろく。

黄色いモルテンタンゴのボールを粗いコンクリの上に弾ませて、

渾身のちからで、蹴った。

ばかんッ、

嵐のなかでも届いてくる音をたててボールはトタンをぶち叩いて、足元に戻ってきた。

漆喰の崩れる音は雨の音にかき消されて聞こえない。

そのまま、蹴る。

ばかんッ。

また。

ばかんッ。

トタンがべこべこになってゆく。

雨がどんどんぶつかってくる。

解放、なのか渾沌なのか、動乱なのか、狂気なのか、暴力なのか、

そんなものから生じるよろこびのかたまりになって憑かれたようにボールを蹴りまくっていると、

駐車場に面したカメラ屋の貧相なおやじが傘をさしてこの雨のなかを

出てきて、

おれのかたわらに立った。

そのおやじは東京からやってきた

なにかの賞をいくつもとったことのある名のあるカメラマンらしかった。

父は仕事の取材のために写真を撮り、

玄関の暗室でその日にその写真を自分で現像するような毎日を送っていて、

フィルムをその店で買い求めていた。

カメラや写真の相談をしきりにそのおやじに持っていたことがあり、

親交があった。

その栗毛色の長髪のおやじは

「きみ」

「ちょっと写真撮らせてよ。」

なにに惹かれたのか、そう言ってカメラを構えたのだった。

「そのまんまでいいから。」

雨は、落ちつづけに落ちつづけていた。

見られると、身構えるものである。

感興がすこしそがれたまま、ボールを蹴った。

おやじはいろんな角度でそんな蹴るおれを撮った。

撮った。

撮った。

濡れる路面に膝をついて撮った。

執拗だった。

雷は鳴りつづけ、

夕立ちは止まなかった。

 

 

そのおやじが失踪してからのことだった。

女性がらみの悶着を抱えたすえ、

夜逃げどうぜんでおやじは結局喜多方から去ったらしかった。

母がそう話していた。

店は廃屋のまましばらく残っていたが、

いつのまにか赤土の石のごろごろした更地になっていた。

更地になってしばらくしたころ、

差出し住所不明の、おやじからの大判の封筒が届いた。

父が、

「これ」

と言って、夕食のときにモノクロームの大判の写真数枚をおれに手渡した。

その夏の日の、

嵐のなか、ボールを蹴飛ばす痩せっぽちのおれの後ろ姿が写っていた。

壁が、べこべこになっていた。