「彼女は去っていった」

920×1400

2002

 

そのひとは、

とても

うつくしい顔だちをしていた。

可憐な、ひとだった。

夏の日に

そのひとを見ると、

おれはいつも、

なぜだか

初夏の、

冷えた風のぬけてゆく

白樺の木立を

思うのだった。

あたらしい絵が出来て、

ひとに見せる時が訪れると、

まっさきにおれはそのひとに知らせた。

そのたびに、

そのひとは

働いている合間の休日に時をみつけて、

やってきてくれるのだった。

良い絵を描きあげることは、

すなわち

そのひとにあえる、

そのことだった。

そのひとにあうために、

絵を描いているのか、

ただ良い絵が描きたいのか、

そのさかいは

そのころ

判然とは分けられないものとなっていた。

冬、

土曜の、

夕刻の下北の雑踏のなかから、

そのひとのしろい顔が見えて、

あらわれると、

ただそれだけで

すべてが報われるような気がした。

 

 

入ってきて、

絵に観入る

蝋燭のともしびのようなそのひとの横顔に、

無為に言葉をかけるのは、

はばかられた。

その場の空気を

穢がしたくないと思うのだった。

半年に一度、

ただ絵を観てもらい、

会話とも言えぬすくない言葉を交わして、

そのひとは去ってゆく。

その繰り返しだった。

 

 

何年かそうして過ごして、

ある日、

好意を伝えると、

そのひとは、

拒み、

そして

来なくなった。

 

 

 

胸に、

風穴が空いたようになり、

もはや、

絵を描く理由がなくなった、と、

虚脱した。

それまでの日常の秩序のすべては、

糸がぬけてちらばり、

その残骸のなかで

ひとり

虚脱していた。

うつろなまま、

ただただ無為に働き、

飯を食い、

眠る。

時は

風のように流れ過ぎていった。

しかし、

その虚脱のなかで、

悲しみにも似た何かは、

煮凝りのようになって

胸のうちに巣食い、

いつしか

つらい重みをともなって

それまでとおなじように

おれを

衝迫するのだった。

 

 

したことは、

やはり絵を描くことだった。