「赤い古代の龍」

1200×920mm

2001

ポストカード化

 

 

ペッパーズの

「ブラッド・シュガー・セックス・マジック」を

爆音で流して描いていた。

最初は手は無かったのだ。

線の動きの強さを描き、顔を描いたら、

手が生えてきた。

なにかを求めている手だった。

 

この絵を見て、

ピアニストの親戚の美しいおばさんリョーコさんが言った。

「良い絵、良い作品はね、ちからがあるんですよ。

それを生んだ作者をしかるべき場所に連れていってくれるんですよ。」

実家の部屋の壁に立てかけられたこの絵を見て、リョーコさんは言った。

 

そのころは、絵を人にみせる、など思ってもいなかった。

ただただ、世の中とうまくやってゆけなかった。

世の中の、たのしみや、おもしろさや、魅力にふれる以前に、

とめどなくこころから血があふれていた。

街にでれば、比喩でなく、

わけのないおそろしさに涙がにじんだ。

眼前の光景は意味をなさず、暴風雨のように

迫ってくるのだった。

そのおそろしさに、眼を開いていられないのだった。

それが、まわりのひとびと、世界にはなんの関係もなく、

ひとりおのれから生じているものであるらしいことは

わかっていた。

しかし、その頃なぜその突風が生じるのかは、

わからなかった。

わかりたくもなかった。

渋谷のひとの流れのなかでたばこに火をつけると、

自分がこの場所にいることのせめてもの言い訳が

得られるような気がした。

これが、さびしさ、というものなのかもしれない。

そうも思った。

それは、切迫した、

獰猛な、

あらあらしいものだった。

 

薬を、嚥むようになった。

その薬は「デパス」といった。

代々木の医者にもらった。

ぼんやり、する薬だった。

ただただ、ぼんやりする薬だった。

デパスを処方の三倍嚥んで、ふらふらしていた。

ふらふらと、脱力して、ゆくところもなく、山手線にゆられる。

溶けかけたからだの奥底には、いくら呆けても、

畏れの神経は途切れず、

ひそやかに横たわっていた。

その神経の、銀色の線から、

とおくへ。

とおくへ。

とおくへ。

薬の量は、日ごとに増し、

肉体は摩滅してゆくのだった。

友人も、こわい。

好きな人も、こわい。

世の中は、こわい。

ひとが、こわい。

ひとの集団が、こわい。

そんな畏れの突風の芯には、

痛烈にひとを恋うる気持ちがあった。

そして同じ量かそれ以上の痛烈さで

自分が穢れている、という脅迫が前にたってあった。

そのふたつの気持ちの間の懸隔を埋めてゆくものがないので、

すべては天と地のように引き裂かれ、

断絶して

絶叫にも似た戦慄は生じるのだった。

そのこころに生じる突風を、

薬はちらしてくれるのか、とおもいきや、

薬は、俺、という生体そのものをある意味、活かさぬよう、

殺しているのだった。

麻痺、させるのだった。

(ずいぶんお手軽なものだな)

そんな風にその薬をどこかでばかにしつつも、

ぼやけた頭で

山手線を五六周して、家へ帰って、眠る。

そんなような毎日だった。

そんな毎日の夜、12時から、絵を描いていた。

夜。

ペッパーズの

『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』を

爆音で流して、

なにを描こうとも考えずに、

とりあえずつよい線を描いた。

その線が、

龍になった。

龍になると、身の内の底のどこかで

明確に、痛烈に、

「手がほしい。」

と思うようになった。

で、手を描く。

「まわりに、赤を。」

「砂をいれろ。」

「その線の痕はそのまま残せ。」

板を前にして

意図外から生じてくる声の連鎖に従って、

絵は形をなしてゆくのだった。

どうしてそんな発想が得られるのか、

自分でもその不思議におどろきながら、

板から生じるその声を、

けがさないよう、

消えてしまわないよう、

一滴もこぼさないようにして、

細心の注意で忠実に形にしてゆく。

そうして一枚の絵として完成にたどりつく

よろこびに勝るものは、

板から離れた自分には当然なく、

世の中にも、

どこにもなかった。

それは絶叫を忘れさせてくれるのだった。

その悦びにのめりこむうちに、

いくつもの夜は知らぬうちに明けていったのだった。

そうして絵は描きたまった。

薬を断った。

 

実家にリョーコさんがだんなさんときて、

立てかけてあった絵の描きかけを見て、

母が、絵を描いていることを話した。

いやだな、と思った。

それから、描いた絵を見たい、といいだし、

一枚一枚、おれはおのれの胸をさらけだす恥ずかしさに、

首から油汗をにじませながら、

絵をみせていったのだった。

 

初の個展の時、リョーコさんは親戚をつれだってやってきた。

もう、眼を通した絵ばかりである。

さして、真新しいことばを発するでもなく、リョーコさんは帰っていった。

数日後、おれ宛に、リョーコさんから手紙が届いた。

長い手紙だった。

感想が、やわらかなリョーコさんらしい筆跡で、

たんねんにしたためられていた。

 

「力作、です。

一枚一枚が、『作るための力』ではなくて、

「『(何になるかわからない)力』が

まずあって、それが、作られて、

目にみえる形を獲得してここに在る」、

本当の意味での力作です。

この『作られて』にあたってどれほどの

努力がはらわれたことだろうか、と思いました。

でも、その努力はなされて良かったのです。

おかげで見る者に伝わる力となったからです。」

とはじまる手紙の最後にこう書かれていた。

 

「『こういうことなのだ』とわかってしまった精神にとっては、

世の中はそのように見えるだけで

とくに不安も不満もなく、

求めるものは

垂直にあらわれるのですよね。(世の中を水平とすれば)

あっちがわにつながっている-

この感覚はどうにもぬきがたく私にもあり、

『あっちがわ』がどこのことなのか、

どうして知っているんだかちっともわからないんだけれども、

でも、たしかに、

『音楽の一方の口があっち側にあいていて、

こっち側にあいてる口に私がいる』

と思ってたのは私だけじゃなく、

けっこうこの話をすれば『そう、そう』と

通じる人たちがいて、だからぞれぞれから垂直。

『これからは宇宙を視野にもたないようなのは文学たる力は持てない』

と埴谷雄高(はにやゆたか)氏の言ったごとく、

宇宙・・・つまりユニヴァ−サル→あっち側→普遍

に先に触っておけばこわいものがないのです。

明さんには

このことが多分わかっておられることでしょう。

これから増々はっきりわかってゆかれるでしょう。

祝・はじめの一歩。」

と結んであった。

埴谷雄高氏の本をおれは読んだこともなかった。

 

 

それから数年後の、

親戚がなくなって、代々幡で荼毘にふした日。

葬式が終わって、親戚が帰るころ、

トイレからでてきたおれは、

リョーコさんがエスカレーターを降りてくるのに気付いた。

リョーコさんは、おれをうらむように、見た。

何もことばを発さず、リョーコさんは通り過ぎた。

理由が、わからなかった。

母が、なくなった親戚の死について、

 リョーコさんのだんなさんが言わなかったことがあり、

そのことにたいして、だんなさんを

きつく責めた、という。

 

それ以来、リョーコさんはとおい人になった。

 

会津、喜多方に住んでいた小学生の夏の盛りのころ、

東京からバカンスにリョーコさん夫妻が家に来たことがあった。

喜多方の家にいた母方の祖母を、

リョーコさん夫妻がバカンスがてらに

熱塩の温泉に一緒につれだってゆくといい、立ち寄ったのだった。

母が、りょうこさんにピアノを教えてもらいなさい、

と云い、

リョーコさんはやけに天井の低い家に据えられた、

母がむかし銀座で祖父に買い与えられたというホルーゲルのアップライトピアノの前に

おれとならんで座った。

ひとしきりおれがバイエルかなんかのごく初歩的な曲を弾いたのを聴いて、

言った。

 

「あきらさんは、なにが、好きなんですか。」

 

「サッカー。」

 

後年、音楽をやるようになって、

楽器に触れ慣れていたことの恩恵の大きさに感謝するようになるのだが、

その頃ピアノは大嫌いだった。

ピアノを教えられるのが大嫌いだった。

毎週の金曜、こうもりの飛ぶ夕方、

西四ツ谷の白いマンション、サニーハイツの右端の一階にあった

コバヤシピアノ教室にゆくと見せかけて、

自転車でぶらぶらと時間をつぶしていた。

教室でやたらに暴力的な女教師の脇でバイエルを弾くのは、音楽でもなんでもなく、

ただの責め苦か機械的な運動にしか思えなかった。

そのころうまくことばにできなかったが、

おれは自分の内側にうずまくなにかを明確な形にしてゆく者に憧れていた。

それはディエゴ・マラドーナであり、

ミシェル・プラティニであり、

デンマークのサッカーであり、

ブラジルのサッカーだった。

テレビを通じて、都会から喜多方のせまい世界のなかに偏って伝わってくる

あさはかな流行歌にも、

音楽の授業で軍隊式に強要される歌や曲にも、

おれのこころを揺さぶるものはなかった。

(なにかちがうんじゃないか)

そうした『音楽』には、

なにか音楽そのものではない、不純なものが含まれているような感じがしてならなかった。

追従とか隷属とかの意識を望んで表明したり、強要するための、

ごくいやらしい政治的な手段程度にしか音楽を捉えていなかったのである。

そんな発想なので、

自然コバヤシピアノ教室にはむかわず、

その足で中央商店街の本屋で漫画をよむか、

田付川べりに行作の道をゆき、

女高生がむかし恋に破れて首を吊った首吊り橋を渡って、

夕闇のなか雄国山のふところを真正面に見ながら、

上高額にひろがる広大な田のあいだの道を、

ひとりぐんぐんにとばしたりしていた。

教室に渡すべく預かった月謝は、教室に行かないので渡されず、

欲しいものもなく、使い道がわからず、

かといっていつまでも隠しもっていることも咎となりつらく、

もらった足で家のまえのどぶに、

コンクリのふたとふたとの接ぎ目に開いている

ほそながい穴に

毎月、流してこんでいた。

そんなこんなで結局、四五年通わされてバイエルを終えられなかったのだ。

一夏の夏休みの宿題を五年かけても終えられなかったようなものだった。

「こんな子は」

「はじめてです」

後年、母にコバヤシ教師は言ったそうである。

 

リョーコさんは言った。

「じゃあね、ボールをぽーん、と蹴るような、

そんな気持ちで弾いてみるといいですよ。」

「ぽーん、と。」

リョーコさんは鍵盤を一つ、たたいた。

澄んだ音が、した。

しろい、か細い指だった。

ボールを。

ぽーんと。

サッカーボールを蹴ることは、

なかなかにあらあらしいものである。

どんなにかるく蹴っても「ぽーん。」とはいかない。

言われるような軌道を出すには、おとにすれば

「どッ。」

といったようなごく無骨な音にしかならないのだが、

ヨーコさんは知らないので、まるで風船を足で衝くような印象で言うのだった。

「ぽーん。」と弾く。

言われるまま飛んでゆくサッカーボールを思って弾いてみたが、

自分の音はまるで粗野のままなのだった。

ただ、となりにリョーコさんがいるのがうれしくて

胸のうちがわくわくわくわくしていた。

彼女のしろい手をみつめた、

あの夏の日を、ときどき、思い出す。