「ライオン」

1350×920mm
2002
ポストカード化

 

 

喜多方では小学校の三年にならなければ自転車に乗れなかった。

喜多方へくる前にいた横須賀の団地では

幼稚園に入る前(母が言うには三歳のころからだというのだがほんとうだろうか)から

補助輪のない小さな青い自転車に乗っていたので、

越してきてからそのことを知ると理不尽に思った。

その三年をむかえると、

喜多方の小学校の生徒は市内に数少ない自転車屋に親と行き、

おもいおもいの凝った自転車を買ってもらい、ある開放感とともに行動範囲を

拡げてゆくのだった。

越してくる時に邪魔だったのか、

横須賀で乗っていた自転車は花園町へ来た時にはなくなっていたので

自分も末広町の、

象を診察した際の褪色した写真をかかげていた極老の獣医師のやっていた動物病院の

となりに一軒あった自転車屋へ親と行った。

やがてつぶれてしまうその自転車屋は、

駅前通りと中央商店街をむすぶ一番大きなT字路の近くにあり、

そのころのこどもを意識したような

やたらに変速切り替え段数のおおい自転車ばかりを駅前通りにはみだして並べていた。

7段切り替え、8段切り替え、前と後ろでまたそれぞれ切り替えが付いていたりする

むやみに速い自転車をおれも他の子と同じように買い求め、

サドルの少し前についている速度切り替えのレバーをがちゃがちゃいわせては

帰るみちみちひとり悦に入っていた。

自分の自転車は真っ黒で、速さが7段回切り替えられるものだった。

 

テルちゃんとトッちゃんとでまず向かったのは

大飯坂の市民プールだったような気がする。

ふたりはやたらにプールが好きで、

自転車解禁を待ちわびていたように街中からすこし離れたそのプールへ繰りだした。

着替える時に金玉をのぞかれるのをなぜか意識して、

家から水泳パンツを着込んでゆくのだった。

よもぎや泡立ち草やら雑草が脇にはびこる、

角のとれていないごろごろした石がころがるほこりっぽい駐車場に自転車を停めて、

150円かそこらの金を払って券を買い、

薄暗い脱衣場を筒抜けして出ると、

50m、25m、25mの底浅、おおきな滑り台つき幼児用の4つのプールが

炎天のした深い青い色で並んでいた。

プールは嫌いだった。

寒すぎるのだった。

結局小学校を出るまで、自分の発育簿は「やせすぎ」というところに

丸がしてあり、それは卒業まで変わらなかった。

痩せていて脂肪の層が薄すぎるのか、

みなが水にたわむれて笑いはしゃいでいるわきで、

唇を紫にしてあまりの寒さにたのしむこともできず、

ぶるぶる震えて両手で身を抱いて立ち尽くしているのだった。

(なんでこんな冷たい水にはいらなきゃならないのか)

そんなことばかり考えていた。

(なにがたのしいんだろうか)

けもののように騒いでいる同級の者を見て思っていた。

テルちゃんは、すこし太っていた。

学年がかさんでくると二の腕もつぶつぶと肥え太り、

腕が太いのを自慢して壁をみつけては拳をぶつけて腕力を試していた。

トッちゃんは痩せていたが、

寒さに鈍感なのか、

いつもプールに持ち込むビーチボールを膨らませては

知らない子の頭にぶち当てて笑っていた。

学校のプールはおぞましいものだった。

二小(喜多方市立第二小学校といった)には25mプールがあった。

喜多方の小学校の校庭にはほぼ例外なく小高い山があって、

二小もその例外ではなかった。

冬になるとその山をつかってスキーの授業をするのだが、

その赤土を盛り上げた山の裏手からずっと喬木の植え込みがあって、

すずかけの木が遊具状の端を通ってプールまで並んでいた。

氷水のようにつめたい井戸水を張ったプールにすずかけの梢がさしかけているのだが、

その葉にはアメリカシロヒトリの毛虫がたかっていて、

プールサイドに落ちてくる。

プールに落ちてくる。

これほどにおぞましいことはなかった。

風をひいた、と仮病をつかってもプールサイドは苦痛で、

水のなかも責め苦のようにつめたい。

それにわきにあったトイレはいったいいつ建てられたのか知れぬ代物で、

戦前からのこどもの糞尿がそのままに放置してあるような入るのもおぞましい趣だった。

そんなものからくらべれば市民プールはまだ近代的で、

付き合いにも耐えられたのである。

テルちゃんとトッちゃんが準備運動もせずにプールサイドをはじかれたように駆けだして

そのまま先も確認せず25mの深いほうへいきなり足から飛び込んで

犬のように泳ぎ回る。

それにすこしつきあって、

あとはそうそうにプールサイドに上がり、

冷えたからだを夏の日射しに灼かれたセメントに横たえるか、

膝下までの幼児用プールを水を蹴ってひとりでざぶざぶ歩いていた。

からだを横たえて、

川石なのか角のない小石のまじるセメントに水がじくじくと音させて濡れ色に染みてゆき、

端から乾いてゆく、

そのわきを蟻がせわしなく動いている様子を巨大な夏の空の下でみていた。

だれかがプールへ飛び込んで水が割れる音、興声がとおくでなっている、

そのわきでそんなふうに過ごすのはまだ好きだったのである。

 

午後の闌けきったころ、

プールを後にした。

喜多方プラザの脇を通って、住宅地に入ってしばらくすると、

寺町の商業高校の近くにちいさな駄菓子屋があって、

その前の空地にころがる土管の上で

プールを上がってきた他の学校のこどももうち混じって

店のばあさんが作る一杯30円のところてんを買って食うのが習慣になっていた。

生活雑貨が店の両脇に山のようにつまれた暗いなか、

奥に座るばあさんのわきにいって金を渡すと、

ばあさんが脇のクールボックスに入った白濁した寒天をとりだし、

ずいぶん使いこまれた木の入れ子にいれて突きだすと、

透明なところてんが押し出てきて、プラスチックの腕にいれて酢醤油を垂らして

よこすのである。

それを手に持って出て、日射しのなかでかがやくのを見ると

それはたいそううまそうに見えるのだが、

じっさい食ってみるとそっけないような酢醤油で、

もともと酸いものが苦手なじぶんは周りにつられてとは言え、

なぜそんなものを頼んで食おうと思ったのか自分でもいつもわからなくなるのだった。

その空地を左手にみて、

脇を通ってゆく小径があった。

後年、駅前通りから喜多方プラザへの貫通道路ができて寺町あたりの一帯が

区画整理されその際に無くなってしまうのだが、

そのいつも小暗いような小径が好きだった。

車通りのある通りと通りを結ぶ人ひとりが通れるくらいの幅のほそい小径だった。

その小径は人家のわきを通ってゆく私道のようなもので、

すぐ脇の足元を幅のひろいおおきな側溝が流れていた。

向こう岸には人家の背面がならび、

その人家の合間からどうやって生えだしたのか、小振りな柳の木が一本伸びていて

向こう岸から枝垂れた葉を側溝にさしかけていた。

足元を掘り下げられた側溝には清い水が流れ、浅い瀬となって音たててはしっていて、

そのさまは入った路地裏のさきでおもいがけず

おんなが髪を洗っているのに出くわすような感じだったのである。

どんなに暑くてよどんだような真夏の日でも、そこだけはどこか涼やかで、

いつもじぶんをしずかに迎えてくれるような親密さを感じていた。

誰にもいわなかったが、

三人で自転車に乗ってその小暗い小径を走りぬけてゆくのを、

じつはプールよりも、ひそかに愉しみにしていた。

 

 

 

市民プールを右手にみて、

そのまま田の間の道をゆくと濁川が流れていた。

ある日、テルちゃんがテルちゃんの不良の兄からもらったヤスを手にしていて、

みなで川へ魚捕りにいくべ、と言った。

テルちゃんのもっていたヤスは鉄製の三つ又の青い小振りな銛だった。

手許の輪につよいゴムが通されていて、それを親指の根にかけて引き延ばし緊張させ、

手を離すと銛が飛び出す、というものだった。

困ったのは、皆がそれぞれ銛をもってゆくことになったことだった。

トッちゃんは小遣いのおおい家だったのである。

一本500円の銛を買うことなど訳もなかった。

しかしじぶんはあまり金がもらえない家だった。

だいたいいつも手持ちは200円あるかないかだった。

プール代だけはべつにして(四国の海辺でそだった父は泳ぐことだけは

おれに奨励した)、

月に280円の小遣いをやりくりしていたので、500円の出費は重く、

自然どこからか金を調達せねばならなかった。

後年にはずいぶん親をあざむいて金をせしめるようになるのだが、

そのころにはまだそんな発想は持てなかった。

とはいえ、

(おれ、金ねえから買えねえ)

とも言えなかった。

テルちゃんとトッちゃんとの友情は、

転校してばかりで友のつくれなかったじぶんにはかけがいのないもので、

ほんのすこしの傷でも損なうことを恐れていた。

かといって親は金はくれない。

結局、ヤスを一本盗むことにした。

 

 

末広町には町内に広大な地所をかかえる農家の地主があって、

駅前通りを家から駅のほうへすこしいったところから南天の生け垣が続いていた。

その生け垣のむこうがわはすずかけの大木が幾本も生えているおおきな畑で、

下校の時には幾度か病院脇から入り込んで家へ近道したことがあった。

その畑を管理していたのは因業だと評判の老女で、

うちが末広町へ越す時もその老婆から家を借りたのだが、来たときに

玄関以外の戸が嵌まっておらず母が嵌めるように注文すると、

自分ではめろ、びた一文ださない、そして去る時にはその戸をぜんぶ持って出てゆけ、

といったそうだが、

そうやって畑を無断で横断しても咎められたことはなかった。

開いているのをついに見なかったお好み焼き屋の脇からその生け垣があらわれ、

ふたのないどぶにそってしばらくいったところに小さな釣り具店があった。

たいてい店は開いているのだが、店のおっさんは奥でなにかをしていて

大声で呼ばわらないと出てこない。

川釣り用の和竿、魚籠、兄は詳しかったがおれにはわからぬ浮子、重り、それから網、

針、糸そしてヤス、そんなものが日陰の店内のたたきにならべられ、

そこにまぎれて携帯食なのか、ひと袋50円の塩味の霰せんべいの小袋が売られていた。

母にせがんで幾度かその店でしか見ない小袋を買ってもらったことがあり、

店の事情は分っていたのである。

休みの晴れた日に三人で釣り具屋に向かうと例によって店内の土間は無人であり、

結局トッちゃんがヤスを買い求めるどさくさにまぎれて

もう一本を持ち出すことはさしてむずかしいことではなかった。

盗みを覚えたのは

トッちゃんの家のあった上高額の先にあったビッグジム、というスーパーで、

『流れ星銀』という犬のマンガの人形入りの菓子を盗んだのが最初だった。

べつにそのマンガが好きでもなかったのだが、

テルちゃんとトッちゃんに試されるようにそそのかされたのだった。

二人はいつからか盗みをおぼえていて、

盗むことそのものにともなうスリルに中毒していた。

上高のどこかの農家の豚の仔が死んで捨てられているという噂を聞いて、

あちこち畑を見にいったいつかの秋の夕に

その死骸を見つけられなかった腹いせにか、二人はビッグジムに向かった。

物はなんでもよかったのであろう、

ひとりづつ店へ入って物を盗んでくるのである。

そして盗んだものを三人で等分して、秘密を分け合い、

われわれは悪連帯をつよめた。

根が臆病なおれはそのときずいぶん肝を冷やしたのだが、

それはヤスを持ち出した時もいぜんとして馴染めぬものだった。

その味の悪さこそが、友情の対価なのだろうと思っていた。

 

 

濁川には、

われわれ三人の場所があった。

ヘドロのような、なまぐさいような川の匂いを嗅いで

無人の水門の管制室のある巨大なアーチを右手にみながら川をわたり

左手の砂利道に入って自転車を置いて土手をおりてゆくと、

葉のならびの涼やかな川原藤の木が一本生えていた。

その藤の木の根元に川石が擂り鉢状に窪んでいるところがあって、

碧色の川水が川石の間をくぐって流れこんでいた。

それはちょうど三人用の小型プールといった趣で、

いつしか三人で見つけたのだった。

おそらくいつかだれかが人為的に作ったのかもしれなかったが、

われわれがそこを夏の根城に据えた時には

ほかのだれかと鉢合わせすることもなかった。

テルちゃんはべつにして、トッちゃんもおれも転校してきた他所ものだったが、

喜多方に古くからいる家のこどもたちは、

そんな道路からさしてはなれてもいないような場所ではない、

もっとよい場所を知っていた。

川原藤の木からすこし上流に見えている水門から、熱塩のほうへと川をさかのぼってゆくと

さかのぼるほどに川水は澄んで、水温がつめたくなってくる。

流れそのものは下流ほど太くはないのだが、

川中の中州の茂みがだんだんと深くなり、

頭上に生い茂る葦をくぐり抜けるような格好になってゆく。

足首が冷えて痛くなるくらいの水温のところで、

さあだれもいないような所にではしないかと茂みを掻きわけた外からは見えぬその先に、

上高額の部落の見知った顔がいくつもとつぜんあらわれておどろくことがあった。

しかしおれはそこで充分だった。

擂り鉢の水温は、プールよりも温いのである。

それで一番深い底は足がつかないくらいで、おれにはじつに具合がよかった。

三人で最初から水泳パンツのままやってきて、

それぞれ緊張させたヤスを手にして、

擂り鉢に入ってゆき、海女さんがするような水中眼鏡で水のなかを覗いたのだが

そのなかでは碧色の川水が泡立って流れてゆくばかりで、魚を見ることはなかった。

 

擂り鉢のすこし上流におおきな水門があった。

川幅いっぱいに可動式の分厚い身の丈の高さの鉄板が横列に渡されていて、

せきとめられた水が、

下のほそく開いたすきまからいっせいに音をさせて疾り出ていた。

まんまんと堰とめられた流れは、

左端の隘路に集められておそろしいような奔流となっていつも逆巻いていた。

川水がうすくはやく走るその水門の手前はものすごく滑りやすくなっていて、

川の匂いがいちだんとつよくたっていた。

その真ん中に立つと、

うすく護岸された上をながれてゆく流れがその棚をおりて集まり、

やがて本格的にふとくなり夏空のしたを流れてゆく川になってゆく様が見えた。

 

本流にでて魚をさがしてみたのだがぜんぜん見つからないので、

その日はそれまでとおなじように泳ぐことにした。

川へ踏み込むと、底の川石が土踏まずに当たるのでとても難儀する。

また滑りやすいので、ごんごんと水中の川石を転がしながら瀬の深いところまで

神経を使って歩くのである。

角のなくなった川石の裏にはヤゴや川虫が棲んでいた。

濁川はやがて日本海へとそそぐ阿賀川へ合流するのだが、

いつか父の取材でいった柳会津の阿賀川の川原のほとりでは桃色の触覚のついた

奇妙な生き物を見つけた。

大形のなめくじのような、なまこのようなものであざやかな桃色をしていて、

水色の班がはいっていた。

掌にちょうどほどで手に取ってもさして反応もみせない不思議な生き物だった。

後年いろいろとその生き物の名をおりにふれて調べてみるのだが、

結局わからないのだった。

そこではまた川釣りの釣り針が右足のひざ頭に刺さったのだが、

それは川歩きのときに運が悪いとときおり起こることで、

肉にいったん食い込むと針の突き返しがあってなかなか外れないのである。

ひいたり、ねじったりしていると、だんだんと肉が崩れて血がにじみだしてきて、

つくづくと人為のむごさを感じた。

 

 

その日は、いつもはゆかぬ深みへ踏み出したのだった。

ひざ下までだった瀬の深さが腰あたりになり、横隔膜くらいになると、

川水の充実した重みを背面から身に受けることになる。

いつもは行くとしても首元ほどの深さの場所で、

粘り着くようにからだを押す圧力に耐えながら

泳いだり足をついて流れに逆らったりしていた。

その日は

もうすこしいった下流に、高校生くらいの年輩の者が二人泳いでいるのが見えた。

そんなこともあって、

三人でそこまで行くことにした。

夕闇がせまりはじめたころ、

そこへ行ってみると、足が届くか、届かないかだった。

「うおすげえ」

「足つかねえ。」

おおきなけんけんをするように、

流れの圧力のなか頭のてっぺんまでじゃぼりと沈みこんで

ようやく足にふれる底の川石を蹴って

口と鼻を水面にだして、苦しいのをまぎらわせるように声をたてた。

沈みこむ。

底を蹴る。

呼吸する。

沈みこむ。

底を蹴る。

呼吸する。

泳いでは、下流に流される。

さらに下流へゆくと流れは小学校のこどもには危険なふとさになってゆくのである。

底についた足で、流されぬように圧力に反発して上流の方へ跳躍するのだが、

浮いた時にからだは風をうけた凧のようにもってゆかれる。

前方には、

さきほどまでとはまるでちがった険しいおとこのような顔の濁川の流れが、

黒く、峻刻に夕闇の川原を蛇行していっていた。

余裕のまったくとれない川の重密な流れに圧されながら

見上げた頭上に、

暮れてゆく夏の夕空が、

しめつけるようなうつくしさで爆発して展開していた。

 

沈みこむ。

底を蹴る。

呼吸する。

沈みこむ。

底を蹴る。

呼吸する。

もはやそんな最低限の、単純なリズムを守るほかないほど追い詰められていた。

沈みこむ。

底を蹴る。

呼吸する。

沈みこむ。

底を蹴る。

呼吸する。

沈みこむ。

底を蹴る。

呼吸する。

沈みこむ。

底が、

底がなかった。

 

足をついて踏みこもうとしたが、

底がなかった。

水のなかに、闇の穴が開いているようだった。

引き込まれた。

呼吸する、のタイミングで吸い込んだのは川水で、

はっと苦しむ間もなく次の拍も水がたてつづけに入り込み

水に攻め込まれた。

おれはテルちゃんトッちゃんだれにも気付かれずに

沈んだ。

(溺れる時は、苦しくないんだ。)

そのとき発見して、沈んだ。

 

(人間は)

(リズムを失ったら)

(これほど呆気無く死ぬのだ)

 

そしてそのリズムの意外なほどの頼りなさをしって、

しんそこ、おどろいた。

 

-たすけて-

 

水のなかでごわごわ言った。

 

 

『死ぬ、』

 

 

 

とはっきりと思った瞬間、

後ろからだれかがおれを引き揚げた。

さきほどみかけたお兄さんのひとりだった。

「あぶなかったな」

「おめえらにはここはむりだ」

そういって、

足の付くところまでおれを泳いでつれていったのである。

水を吐いて、

そうそうに川を揚がった。

そのお兄さんの顔もよく覚えていなかった。

名を聞くこともなかった。

悠然と二人は泳いでいた。

濡れた水泳パンツで自転車を漕いで、

ただただ夕闇の田中の道を帰った。

盗んだヤスは、道ばたの農道の用水路に放り捨てた。

そして翌日も川へいった。