「ためらい」

sold to Yuko Yanagisawai (Japan) 2019

920×1170mm

2001

ポストカード化

 

 

初夏の、

国語の時間だった。

 

晴れた日で、

すべて開けられた左手の窓から

正午前のいくぶん芯の残る日射しが入ってきて、

机のうえに広げられたノートを白く光らせていた。

おれは窓際の席のヒロミのとなりで、

自分の机に授業そっちのけで穴を彫っていた。

丸刃の彫刻刀でもって、

象牙色の木目の机に穴を彫っていた。

一週前から彫りはじめた穴は確実に深さを増していた。

ワニスの塗装は思いのほか固く、

掘りはじめのいつかの日には手を滑らせて左手の人さし指をふかく切った。

国語の時間だった。

まさか国語の授業中に指をかき切って血を流し、

声をあげる生徒があらわれるなど

思いもよらなかったのであろう、

背の高いわし鼻の教師は

「おまえは」

「いったいなにをやってるんだよッ」

と、血止めに彼のハンカチをおれの指に縛りつけながら言ったのである。

その穴はヒロミと遊ぶための穴だった。

隣の席に座るヒロミと、

BB弾をつかって授業中に卓上ゴルフをしたくて、

その一心で彫られた穴だった。

当初はてこずったが、数日かけた末に固い層をくりぬき

生木の層にたどりついて、めぼしい穴が出来た。

持っていたモデルガン用の黄色いプラスチックのBB弾をその穴に嵌めこむと、

うまく入った。

 

「ヒロミ」

 

うららかな日ざしの射し込むなか、

まじめにノートになにかを書きつけているヒロミに声をかけると、

ヒロミは顔を上げ、

おれをばかあつかいして一瞥し、無視した。

 

「ヒロミ」

「ゴルフだよ」

「卓上ゴルフ。」

「やろう。」

「いっぺんでいいから」

「ゴルフ。」

「卓上ゴルフ。」

 

しつこくしつこく声をかけると、

ヒロミはあきれながらも、

「なに。」

「どうするの」

あきれたような顔をして身を寄せてきた。

「卓上ゴルフ。」

「ここから鉛筆でBB弾をうつ。」

「この線からでたら、だめ」

「少ない数でいれたほうが勝ち。」

「ここから」

「うって。」

 

「ばかじゃないの」

「これやるためにずっとがりがりやってたんだ。」

 

「いいから。」

「一回だけでいいから。」

「やろう」

そう言うと、

ヒロミは手を伸ばして、机のうえに書かれた点の上のBB弾を

ヒロミのシャープペンでこん、と弾いた。

 

「あ」

 

玉はいきおいが強すぎ、

机から飛んで、あらぬ方へと転がっていった。

「ばか」

言うと、

ヒロミは笑った。

 

 

ヒロミは、

ヨシイ ヒロミという名の

塗物町の、

やがて埼玉へと転校してゆく

勝ち気で、色の黒い、一重の子だった。

五年の時に窓際の席で隣り合ってから、いつとはしれず、

おれはヒロミをかまわずにはいられなくなっていた。

授業中にはどうやってヒロミを笑わせようか、どうやって関わりあいをつくろうか、

そのきっかけになると思われるさまざまないたずらや冗談、企み、ちょっかい、

そんなことばかりを考えていたのである。

教師の話などまるで耳に入っていなかった。

学校には、もっぱらサッカーと、ヒロミのためだけに行っているふしがあった。

最初の頃はヒロミはどう思っていたのかしれないが、

みょうな熱をもってなんやかやとそうしてちょっかいを出してくるおれに

だんだんと慣れて、下校時刻になると、

ふたり学校のやわらかくきしむ木の階段に残って、

夕闇の中おたがいをからかったり、

 ただ言葉をかわすことが目的の、

泡のような、

今となっては思い出すこともできない

とりとめのない話をするようになっていった。

そんなふうに月日を過ごすうち、

いつしかヒロミもおれをかまうようになり、

友だちの女生徒伝えや、

たわいない仕種でおれへの好意をそれとなくほのめかすようになっていった。

 

晩春の日、

昼休みの後、

掃除のために机が後ろに寄せられると、

教室に意外な空間がひろがって正午過ぎのけだるいような風が流れこんできた。

雑巾やほうきや、

木造の廊下を磨くためのオレンジ色のワックスの入った銀色の缶をもって

小暗いなかをせわしなくうごいている生徒たちの間のなかにいると、

先のほうからヒロミが右手を銃のかたちにしておれに狙いをつけ、

「ばん」

と言い、おれを打つ真似をした。

ずいぶんこそばゆいような真似をするので、

おれはその空想の弾丸を受け止めず、

逐一身を躱す真似したのだった。

万事そんな調子だった。

ある時期からおれに狙いをつけるようになったヒロミを、

おれは受けとめることができず、

柔弱にひらひらと身を躱してばかりいたのだ。

 

ヒロミが越してゆく小学校最後の年の夏だった。

教室でヒロミが連れのカヨを連れて寄ってきた。

「ツボイ」

「お祭り」

「いこうよ。」

「みんなと。」

ヒロミは言った。

(みんな。)

おれはすなおに喜ばず、その言葉にひっかかってゆくのだった。

「みんな。」

確かめると、

ヒロミとカヨと、

御清水のヨシオ、それとケンタとおれで

夏の諏訪神社の祭りに行こう、というのだった。

ヨシオは、いつもおれとつるんでどうしようもない悪事を働く耳の不自由な悪友だった。

(ケンタ。)

ケンタは、その年に東京から越してきた転校生で、

健やかでほがらかな美少年だった。

転校してくるやケンタがサッカーをするときに着ているウインドブレーカーを

真似して着るものが何人もあらわれた。

女生徒数名がケンタを自宅にまねいて誕生会をした。

そんな人気者だった。

そのケンタにヒロミが声をかけたことに嫉妬をおぼえた。

「わかんねえ。」

おれは言った。

「うちのおやじがうるせえんだ。」

「町内会の祭り囃子でろ、て。」

「だから聞いてみねえとわかんねえ。」

それは嘘ではなかった。

実際、父は近隣の些細な日常の取材を仕事とする新聞記者だったので、

つきあいや義理を欠かすことにうるさかった。

特に住んでいた末広町はこどもの数がすくなく、

おれが欠けると町対抗のソフトボール大会や、祭り囃子など

参加できなくなる行事が出てくる。

そんなこともあって父に相談せねばならなかった。

父をあざむく、という手もあったはずだったのだが、

そうはしなかった。

 

家に帰って夕食の時に

父にたずねると、やはり断固として反対された。

祭りの日は、おれが太鼓を叩く太鼓台は朝からはじまって夜の9時くらいまで

市内を練り廻るのである。

9時にはおおかた夜店は店をたたんでしまう。

ヒロミに会えるのは、

市内をめぐった各町内の太鼓台が夜7時前に

いったん諏訪神社の境内に勢ぞろいする後の、

休憩時間わずか10分ほどしかなかった。

そうわかると、かつてないほどにつくづくと父を恨んだ。

 

その話をして、結局、おれを抜かしたヒロミ、カヨ、ケンタ、ヨシオと

その10分のつかのまに合流することになった。

 

桜の梢と丈高い杉のさしかける境内に集結した10数台の太鼓台は

一番調子のはげしい囃子を調子を合わせもせずに

それぞれのリズムでてんでばらばらに鳴らした。

「練りこみ」とよばれる曲が、混然と混ざってひとつの渦のような律動となって

からだの底を揺らした。

神社に祭られる武神に奉納する、

そのひとつの騒音となった囃子をひとしきり鳴らした後、

音が止んで、休憩になった。

祭り提灯と金色の山車のはなやかな光に満ちる境内で

大人衆は酒を呷り、その辺にあつまって柏手を打っていた。

太鼓台の大きな木の車輪のわきに座って待っていると、

「ツボイ。」

ヒロミたちがやってきた。

おれは、法被姿だったのがどこか気恥ずかしかった。

また、複雑な感情もかかえていたので、

諸手で笑顔になることができなかった。

「ごめんな。」

おれはヒロミに謝った。

それから、

「ほら。」

「これで太鼓たたくんだ」

そんなことを言って檜の伐り出しのふといばちをヒロミに手渡した。

「手がぼろぼろになっちまう。」

豆ができて、また薄皮が剥けた掌を見せた。

恥ずかしさが立って、

そわそわしながら、

そのつかの間の10分、みなで境内から出た。

諏訪神社の夏の例祭は喜多方で一番規模のおおきな祭りである。

鳥居をくぐると、

前方の玉砂利の参道にも夜店が満ち満ちて、

砂糖のやける祭りの匂い、

発電機の輪転する音、

裸電球の光なぞが一緒くたになって、おびただしい数の人出とともに

汗だくのかたまりになっていた。

鳥居前を右手に出た駅前通りが本格的な夜店の並びになっていて、

100を超える店がテントの軒を寄せあっていた。

親からもらっていた500円で、

ブルーハワイの青いかき氷を買って、

みなで食った。

残りを輪投げに使った。

金は無くなった。

五つもらった木をたわめた輪はなにを狙ったのかわすれたが、

よくわからぬトロフィーや、十手、キャラメル、陶器の人形の居並びを外れて

なにもくぐらず無惨に路面に落ちた。

そのさまをみなで笑いあい、

代わりにブリキの蝉のちゃちなおもちゃをもらった。

ペンキで安っぽい蝉の絵の描いてある彎曲したブリキの裏にへこみがあり、

そこを押すと蝉の声とはまるで似つかぬけたたましいような音をたてた。

それだけやると、

また後半の練りがはじまるのだった。

むなしいような残念な気持ちで

「じゃあ」

「おれ行かねえと。」

ヒロミと皆に向かいあって言った。

蝉の背を押すと、

ペキッ、と

けたたましい音がした。

 

ヒロミとの関係の位相が変わったのに

おれはついてゆけなかった。

ヒロミに触れようとしていたが、

いざ触れられるようになると、からだは自分にも意外なほどの違和感を覚えて、

おれは身をこわばらせた。

 

-おれはよごれているんじゃないか-

そうからだが反応するのだった。

ヒロミを慕う気持ちと同じ強さでその意識はつよくなってゆき、

いつしか自分は軽やかさを喪なっていった

どうしても、

さらに関係を昇華させることができず、

ヒロミとの間に重いような空気が流れるようになって、

そのまま、

ヒロミと別れをむかえることになった。

 

冬の日の、

小学校の最後の学級会で、

ヒロミは中学校へ上がるのを境に埼玉へ越してゆく、と教師が言った。

愕然とした。

学校が終わると、

女生徒がヒロミに寄って来て、

周りを囲んだ。

くちぐちに別れを惜しむその囲いをまえに、

おれは話しかけることができなかった。

最後に、

囲まれている合間からヒロミの顔を見て、

帰った。

 

帰ってから、

夕方の6時ころだった。

家にだれもいなくなった。

ヒロミに、

やはりどうしても好意を伝えたくなった。

学級連絡簿をひっぱりだしてきて、

ヒロミの家の電話番号をひいた。

それを紙にうつして、

黒い電話器の前に座った。

ダイヤルに指をいれ、

ダイヤルを回そうとして、止めた。

いったん居間にもどった。

それからまた電話の前に来て、

ダイヤルを回し、

止め、

またやり直した。

最初の市街局番からいれたが、

さいしょの三文字目くらいで止めた。

もう一度やり直して、やはり途中でやめた。

またやり直す、やめる。

それまでにおぼえたことのない畏れが指を止まらせるのだった。

結局、あきれるほど電話のダイヤルを半端に回し、止めるのをくり返し、

ようやく、全部の番号を回しきった。

呼び出し音がなった。

(耐えられない)

また切る。

また呼び出す。

自分でも不可解なほどの逡巡に責められ、

4、5度そんなことをくり返したすえ、

電話はつながった。

「はい」

「ヨシイです」

ヒロミだった。

 

受話器の手が脂汗をにじませていた。

言った言葉は

「サトウさんですか?」

だった。

 

「・・・」

「ちがいます。」

ヒロミは言った。

 

「すいません」

「まちがえました。」

 

受話器を置いた。

それが、最後だった。