「蓮」

920×1120mm

2003

 

夏の、

さかりだった。

元住吉小学校の校門から

ひとけのない校庭に足を踏みいれると、

広大な夏の青空が展け、

おおきな入道雲がわき興っていた。

猛夏の日射しのなかで

校庭はしろくかがやき、

その奥に

石膏で作ったような校舎が

猛暑のなかで

うずくまっていた。

どう、と

風がふいて、

校庭の砂をほこりっぽく

まきあげ、

庭面を吹き流していった。

 

おれは二十歳だった。

 

 

 

 

 

 

 

「あのねえ」

「おにいちゃん」

「おねがいが」

「あるんだ」

 

元住吉の、

孤児院だった。

おれが勉強を教えていた、

ヨシロウが、

会議用の机で

ふたり並んで

「勉強」しているときに

きりだした。

「なに」

あたりに、

ほかの子供達の嬌声や、

走り回る音がしていた。

 

問うと、

目をくりくりと動かしながら

すこし言いづらそうに

ヨシロウは

言った。

 

「こんど

「じゅぎょうさんかんがあるんだけどね。」

「おにいちゃん」

「そのじゅぎょうさんかんに」

「きてくれないかなあ。」

 

広げられた

ヨシロウの「算数」のノートの、

後ろから広げられた何枚目かのページには、

その日おれが描いた

烏賊や、蛸、鰹、ピラニア、

ほかによくわからない龍のような魚が鉛筆で描いてあった。

そこに

ヨシロウが銛をもった小さな人を書き込んでいた。

ある男が、

海の怪物を退治しにゆく、という

冒険物語をふたりで作って遊んでいたのだった。

 

「いいよ。」

「いくよ。」

「いつ?」

 

応えると、

「ほんと?」

「やったやった」

ヨシロウは

わらった。

 

 

 

 

 

入学して間もない学校で知り合った、

つまらない生知恵のようなことばかりを喋るやつに

ついて歩いているうち、

いつのまにやら

ボランティアサークルに入ることになっていた。

都内の孤児院に出向いて、

こどもに勉強を教える、

という活動内容だった。

それまで、

ボランティア活動に参加したこともなければ、

興味自体ももっていなかったおれには

当初、

まるでやる気がなかった。

見学だけして、

そうそうにぬけようと考えていた。

見学に、

元住吉の孤児院にゆくことになった。

 

 

 

元住吉の、

繁華な駅前商店街を

桜のある小道から脇へ入り、

住宅街のなかの

庭にまた桜のある孤児院へ向かった。

会議室に通されて、

保母さんのような若い女のひとと差し向かいになった。

「ヨシロウは」

「お父さんとお母さんのかたが」

「事情があって」

「別居していまして」

「お母さんのほうが」

「面倒をみることができない、ということで」

「小学校からこちらで生活しております。」

「それでですね」

「ツボイさんには」

「ヨシロウに算数をすこし重点的に」

「教えてほしいんです。」

「よろしいでしょうか。」

 

「わかりました。」

 

その段階で、

ぬけることは無理らしく思えた。

半端な気持ちで出向いてしまったことを

いまさらのように後悔しつつ、

そのまま

部屋をでて、

薄暗い階段を上がっていった。

通された部屋は、

音楽室のような雰囲気の部屋で、

ピアノが隅におかれ、

ワックスの磨きこまれた木の床が目についた。

そこに10人ほどのこどもたちがてんでに遊んでいて、

「ヨシロウ」

「ほら、走り回ってないの」

「こっちきて」

「今日から勉強教えてくれるお兄さん」

と、

保母さんが

そのこどもの群れに声をかけると、

ひとりの坊主の小柄な男の子がこちらへやってきた。

 

「こんにちは」

「オダギリ ヨシロウです」

「おにいちゃん」

「さっそくべんきょうおしえて。」

 

と屈託なく言うのだった。

 

二人で、

会議用の長い机を引き出してきて、

並べると、

ほかのこどもを担当する同僚がちらほらとあらわれ、

机をおなじようにだして、

勉強し始めるのだった。

 

おれは、

人付き合いが

苦手だった。

それまで

アルバイトも、

どうにかしてひとと関わることの少ない種の仕事、

たとえば

大手町のビルの清掃であり、

赤坂の居酒屋の煮方のような仕事ばかりを

選んでいた。

他の者が割のよいと選ぶ

家庭教師や、塾講師などを

むしろ避けている節もあったのだ。

自分の幼児期を振りかえってみても、

虚言癖と窃盗、

突発的な暴力、

無意味な悪事、

それにやけに純粋な感動に

まみれていた

こどもというものは

まったく得体のしれないものとしか思えなかった。

しかし、

ここにいたって

その避けていたことに真正面に向き合うことになったのだった。

 

また、

数字が苦手だった。

中学で、

担任だった数学の青白い顔の教師が

睾丸に炎症を起こして、

学校を休んだり出たりして

授業がぐずぐずになり、

代わりにきた年老いたおっさんの教師の

会津弁の訛りが強すぎて

聞いていられなかったのを機に、

数学は

勉強するのを

止めてしまっていた。

高校に入ってからも、

受験の期間にもそれは変わらず、

文系の試験にはどうやら数学はいらないようで、

その傾向はつよまり、

数学がらみのテストには

何も書かないで出すことが多かった。

ずいぶんと、

ほんとうに、もったいないことをしたものだが、

小学校三年の算数ぐらいならば

たぶん大丈夫であろう、と。

 

 

 

 

ひりつくような緊張を底にかかえながら、

ふたりで並んで座った。

 

「おにいちゃん」

「この計算がうまくできないんだよね」

 

ヨシロウは

綿織の手提げぶくろのなかから、

一枚のテスト用紙を出して、

机の上に置いた。

三桁かける三桁の

かけ算のテストだった。

30何点しか取れていなかった。

唐突なかんじもするが、

とりあえず、

勉強しようか。

「ヨシロウくんは勉強好き?」

「うーん、あんまりすきじゃない」

「そうか。」

「まあ、いい。」

「これからいこうか。」

間違いの答案で赤いはねが書いてある問題にとりかかった。

「3かける3は?」

「えーと、9。」

「7かける3は?」

「20、1。」

「じゃ、くりあがって」

 

「おにいちゃん、」

 

ヨシロウは質問を止めさせて

声をかけてきた。

「なに。」

 

「コンタクト、でしょ。」

 

「そう。」

「なんでわかるの?」

 

「くろめをね」

「みてたんだ。」

「くろめをじっとみるとわかるよ。」

「ナオコさんも」

「コンタクトだよ」

 

保母のひとのことを言うのだった。

ずいぶんと、

観察の細かい子なのだった。

おもしろいことを言うものだ、と驚いた。

そして、

やはりこどもというものは

おかしなところを見ているものなのだった。

 

 

 

 

とはいうものの、

ヨシロウは

興味のないものに

集中することができないたちらしく、

いくら計算ができるようになることの効能、利得を

説いてみても、

まるで

上達しないのだった。

「おにいちゃんおにいちゃん」

「ほらこれすごいよ」

「わににはねがはえてる。」

などと、

学校で描いてきた落書きをおれに見せるのだった。

数学を捨てて、

悔いを感じている者が

その利得をいくら説いてみても、

説得力が出てこないのも当然ではあった。

最初の2月が過ぎると、

勉強はそこそこ、

あとは、

ふたりで絵を描いて、

物語を作って遊ぶようになっていた。

 

ヨシロウを見ていると、

じぶんのこどものころが

異常だったのか、

そもそも、

こどもというものは

こういうものなのかと

不思議に思えるのだった。

ヨシロウには

屈託や、

邪気が感じられなく、

無防備な幼さで

おれとの距離を縮めて来るのだった。

そのことにささいな違和感を

感じつつも、

「ヨシロウくん」という彼への呼称は

「ヨシロウ」へと変わってゆく程度に

われわれは親しくなっていった。

「おにいちゃん」

「かまきりしってる?」

「知ってるよ」

「こんなやつでしょ。」

紙に描く。

「うわあ。」

「そうそう。」

「すごいよ。」

「かまきりがどうしたの?」

「きょうがっこうでね、」

「トシカズがみつけたんだ。」

「あれ、てがすごいね。」

「そう、こんなふうなの。」

「これが、おおきかったらこわいよね。」

「こわいね。」

「もし、ほんとうにそんなかまきりがいたら」

「ヨシロウはどうする?」

「けんでやっつけるしかないね。」

「剣か。」

「どんな剣?描いてみて。」

ヨシロウは、

おおざっぱな剣をノートに描く。

「なんか、包丁みたいだな」

「野菜を切る」

「これをどう使うの?」

などと、

噺を描いて、

その細部を考えて、

絵を描かせ、

また噺を考えさせ、

をくり返すうち、

だいたい別れの時間になるのだった。

 

 

「おにいちゃん」

「きょう、ぼくのへやでテレビみよう。」

ある日、

別れの時間が来ると

ヨシロウはいった。

さしたる用事もなく、

まじめくさった、

たいして魅力も感じない同僚の学年の上の者との付き合いで、

いたたまれなさのなかで

飯を食い、

飲めぬ酒に金を使うのも億劫だったので、

「いいよ。」

と応えた。

ジャングルジムのある中庭を

右手に見ながら

廊下を行くと、

広い部屋があり、

ヨシロウと年の近い

5、6人のこどもたちが

床にすわったり、

椅子に腰かけたりして

右手の頭上にあるテレビを眺めていた。

「はいって」

というので、

入ると、

灰色のリノリウムを張った床に

いくつかの高価なゲーム機、

箱に入ったおもちゃ箱がいくつか転がっていた。

「おじゃまします。」

他のこどもたちに挨拶をした。

「こんばんは。」

テレビを眺めているもののうち何人かが

振りかえって、

応じ、

またテレビにもどった。

することなく、

立っていると、

「おにいちゃん」

「これこれ。」

ヨシロウが、

左手の後方に並ぶニ段ベッドから、

本を持ってきた。

「ぼく、しょうぼうじどうしゃがすきなんだよね」

と言う。

見ると、

警察車輌や、

消防車輛の絵本なのだった。

「ほら、こののびるやつ」

「梯子」

「そう、はしご、これがかっこいい。」

などと話してくれるのだった。

そんなふうに話していると、

「ヨッシ、にっきかいた?」

ほかのこが寄ってきた。

「まだ。」

「かかないとまたおこられっぞ」

「おにいさん、ヨッシばかなんだよ」

「じゅぎょうちゅうずっとえばっかかいてんの」

「うるせえなあ。」

「はは」

「ぼく、にっきかかないといけないから」

「らくにしててよ。」

とヨシロウは

言うのだったが、

他のこどもたちは

なにかの動物番組を無言で眺め続けているのであり、

なにかをすることも思い浮かばず、

おれは強まるいたたまれなさを感じはじめたのだった。

するうち、

保母さんが

「晩ごはんだよお。」

顔を覗かせた。

それを潮に、

帰った。

 

 

 

 

 

 

一年が過ぎようとしていた。

自宅の部屋で、

屈託が極まったおれは、

飲まずにためておいた

精神安定剤を

ありったけ、

掌にあけた。

デパスは

全部で

70錠くらいあった。

どうしても、

こころの緊張をとくことができなかった。

誰にうらみもなかった。

ただただ、

「おまえはここにいる価値があるのか」

という、

絶えず生じる内側の声に脅かされつづけて、

どこへいっても

血のにじむほどに

いたたまれないのだった。

そのいたたまれなさを

また無防備なひとに当ててしまうことに、

疲れた。

なんの興味も、

関心も、

好奇心もなかった。

ひとと関係を結ぶことができなかった。

金への欲求もなかった。

女性への執着がない訳ではなかったが、

畏れとないまぜになり、

強い欲求にはなり得なかった。

これからの生活を、

豊かにしてゆく動機が、

まるで見当たらなかった。

維持してゆく動機が見当たらなかった。

家族に、

わびて、

食用の日本酒とともに

薬をあおり、

ベッドに横たわった。

横向きに寝るや、

すぐに動悸が異常な強さで拍動しはじめ、

耳朶に血流が押し寄せる音を感じた。

仰向けになって、

血管が膨張しはじめ、

眼底の毛細血管が膨れて

眼球が飛び出るのではないかと心配するうち、

意識を

喪なった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目が覚めると、

火曜の夕方だった。

丸一日、昏睡していた。

意図せず、

生きていた。

時計をみると、

孤児院へむかう時間だった。

「急がなきゃ。」

まるでなにもなかったかのように、

ボランティアに行こうとしていた。

ベッドから起きて、

歩くと、

ふらついて、嘔吐した。

渋谷から元住吉まで、

5、6度

途中下車して、

嘔吐した。

 

 

少し遅刻して、

いつものように、

机を並べた。

算数の問題集を

10問といてから、

ジャポニカのそのノートの後ろからページをめくって、

ヨシロウは

「おにいちゃん」

「いかをかいて。」

というのだった。

わずかに残る吐き気のなかで、

烏賊を描いた。

「ヨシロウ」

「烏賊はまず」

「頭が三角。」

「で、胴がながい。」

「目は下のほうの両脇についてる。」

「黒と銀色の目」

「で、足が十本ある。」

「蛸は八本。」

「まちがえちゃだめだよ」

「で、その十本のうち長いのがニ本ある。」

「手みたいなもの。」

「で、墨を吐く。」

「この手の間に口がある。」

「にわとりのくちばしみたいなやつ。」

「そこから墨を吐くんだよ。」

などと言いながら、

烏賊を描いた。

「へええ。」

「じゃ、たこもかいて。」

などと、

言われるままに

描いていった。

「たこといかはどっちがつよいの?」

「わからない。」

「どっちが強いと思う?」

「いかかな。」

「なんで」

「てがおおいからつよいよ、いかは。」

「そうか。

「いかをまずやっつけないとだめだね」

ヨシロウはまた剣か何かをもった人間を

おおざっぱに描いた。

「ヨシロウ、海で魚を採る時には」

「剣じゃだめだよ。」

「なにつかうの」

「銛。」

「もり?どんななの?」

「こんななの。」

三つ又の銛を描いた。

「これでさすの?」

「そう。手許にゴムがついてて」

「そこにひっかけて水のなかを飛ばすんだよ」

「へええ。もりか。」

ヨシロウは

描いた人間の持っていた剣を消しゴムで消して、

銛を描いた。

それから、こどもっぽい擬音を口で真似て、

空想をはじめるのだった。

さまざまな魚と、

龍のような海の主を描いたあと、

別れの時間になった。

「じゃ、また来週ね。」

というと、

ヨシロウは、

「あのねえ」

「おにいちゃん」

「おねがいが」

「あるんだ。」

と切り出してきたのだった。

一週後の、

午後の授業へゆくことを約束し、

別れた。

帰り際、

また吐き気がもどり、道ばたに

胃液をもどした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

校庭を渡ってゆき、

おぐらい玄関の前に来ると、

左手の

ちいさな池端に、

紫陽花の一群れが咲いていた。

日陰の、

硬質な感じの玄関で靴をぬぎ、

清潔なしろい校舎の二階へと、

階段を上がっていった。

階段の上がり端がヨシロウのいる教室で、

もう授業が始まっていて、

教室の後ろの引き戸が開いていた。

ランドセルを蔵うロッカーの前に、

保護者の母親たちが

居並んでいて、

むせかえるような化粧の匂いを発散させていた。

一番窓際のところが空いていた。

ひとり、

痛烈な場違いな感じに苛まれながら、

保護者の前を通って、

窓際に立つと、

正面に、

児童の黒い頭が居並び、

女の教師が黒板になにやらを書いていた。

なんの授業だったか思い出せない。

教師が

黒板にチョークで字を書きつける音がしめやかに響くなか、

静寂ではあるが、

ひとけは満ち満ちているのだった。

こんな感じだったんだな、と思った。

また

こんな感じだったっけ、とも思った。

ヨシロウは、

前の方の席で、

なにかをまじめそうに

書いている。

絵でも描いているのだろうか。

そこからは見えなかった。

左手の、

開けられた窓から、

夏の風が入り込んできた。

外には、

誰もいない白い校庭が

だれた風に吹き晒されて

じんまりと

わだかまっていた。

 

 

 

授業が終わると、

ヨシロウは

うしろへやってきて、

「おにいちゃん」

「これからいっしょにかえろう。」

と言ってきた。

「玄関でまってて。」

 

言われるまま、

下へ降りて、

玄関をでてくる児童や、

親子連れを、

居づらさを感じながら見ていた。

「おまたせ。」

そう言って出てきた

ランドセルを背負った

ヨシロウと、

校門をでた。

 

 

真夏の午後の、

アスファルトの

住宅街を

ふたりで

並んで、

歩いた。

 

「おにいちゃん。」

「きょうは」

「ありがとう。」

「うれしかったよ」

「いままでだれもきてくれなくて」

「さみしかったんだよね。」

 

そんなことをヨシロウは言うのだった。

 

「このまえ」

「おかあさんがきたんだよ。」

 

いままで、

意識して触れないようにしていた

ヨシロウの家庭の話を、

ヨシロウは

し始めた。

 

「おとうさんとまたなかよくできそうだ、って」

「まえは」

「あんまり」

「うまくいかなかったんだけど」

 

「ふうん。」

 

 

「それでね、」

「こんどとおいところで」

「みんなですむことになったの。」

「さんにんで。」

 

「そうか。」

「遠いところって?」

 

「えーとね、ふくおかっていってたかな。」

「ふくおかって」

「とおいの?」

 

「そうだね、ちょっと遠いね」

 

「そうなんだ。」

 

「だから」

「らいしゅうから」

「ぼくがくえんからひっこすんだ」

「だからおにいちゃんともおわかれになるよ。」

「さみしいね」

 

 

「そうか。」

「それは」

「残念だな」

「ヨシロウ、」

 

聞いてしまった。

 

「お父さんとお母さんと住めるようになって」

「うれしい?」

 

「そりゃあ」

うれしいよ。」

 

 

ヨシロウは

屈託なく

夏の青空のような顔で、

こたえた。