連作祭壇画無主物

『二〇一二年八月二二日に死んだ下請け 作業員』

(二〇一五年一月から制作、完成 ) (oil painting on wood panel. 117×91cm × 3 pieces. 2014)

sold to Yuko Yanagisawa(Japan) at 1,000,000 yen 2019. 

「―いちばんひどいと思ったのはあれですね、

休憩するとこ ろも仮眠するところもごはん食べる所も一緒で。

その、ひと の頭と足がくっついてるようなかたちで休むようなかたちで。

それに対して改善とかそういうの、なかったですね。

あとは、 やっぱり亡くなったひともいましたけれど、

あの、福島医大 かどこの医者かわからないですけど、福島医大だと思うんで すけど、

その医者が来て、その、

あったかい言葉”はなかっ たですね。

ほんとに、人間として見てるのかなあっていう感 じだったです。

「なんだッ」って。

「めいわくかけてッ」って 感じだったですね。

それが一番の印象に残ってます。

その時 はみんなもこう、顔つきが変わりましたね。」

(元原発作業員二〇一五年一月)

 


二〇一七年四月二九日時点までに、

東電は吉田所長の死を含めると一七 名の福島第一原発事故収束作業員の死亡者を公表している。

二〇一一年の三名。

二〇一二年の二名。

二〇一三年の二名。

二〇一四年の二名。

二〇一五年の六名。

二〇一六年の一名。

二〇一七年四月までの一名。

これらの公表資料、および報道資料を見てゆくと必ず重要な要素が書 かれていない。

<死んだ作業員が下請け構造の中で何次請けの会社に所属していたのか> という点だ。

 

( 例 福島第一原子力発電所の状況 平成 24 年1月 11 日 東京電力株式会社 )



二〇一四年から自分は一人の元原発作業員と出会い、

聞き取りを続け てきた。

彼は二〇一二年から働きはじめ、

六次請けの会社に所属。

賃金 は手取りで日当六〇〇〇円だったという。

彼の周囲にはさらにその下へ 下へと降りてゆく七次、八次、九次請け業者に所属する作業員達がいて、

おどろくような賃金で彼と同じ作業に従事していた。

給料もばらばらに 違う。

同じ作業で賃金が異なれば不満が噴出するというので、

彼は給料のことについては口を閉ざすことを社長に固く命じられていた。


彼が働いていた二〇一二年の八月二二日。

休憩所で彼が休んでいると一人の作業員が横たわったまま動かなく なっていた。

そのことに周囲が気づき緊急搬送されたのだがすでに遅く、

心肺停止 状態だった。

やがて心筋梗塞でなくなったことが伝えられるこの作業員 がいったい何次の下請けだったのか、

一日いくらもらっていたのか、

知 る由もない。

 

話をしてくれた元作業員は元々は県外の人間で、

事故後に 作業員を集める人間の発言の

「日に三万四万はカタい」

というふれこみ を信じて福島へやってきた。

彼の周囲にはそんなふうにして集まって来 た人間が多くいて、

なかには得られる金を当て込んで借銭をして福島へ やってきた者も少なくなかったという。

だがそうして作業員としての登録を済ませて福島へやってくると、

待ちぼうけを食わされる。

来週には はじまる、そんな言葉が翌週になり、翌月になり、三ヵ月先になりとい う具合に、

彼は登録はしながらも作業に従事できず、

賃金も得られずに 結果的に貯金を取り崩しはじめる。

金を節約するために駅近くの駐車場 に停めた車の中で寝起きしていたという。

二〇一二年の段階でそんな人 間が数十人はいたという。

ようやく福島の原発での作業がはじまると、

社長から言われる。

「給料は三〇日締めの翌三〇日払い」。

下請け構造が あまりにも重層化して、給料の計算がそれに応じて遅れ、

結果的に二ヵ月は金が入ってこない。

必然的に社長に金を前借して生活し始める。

こ こで、弱みを握られてしまう。

前借り分、食費、交通費、居住費そんな 名目で給料から金が抜かれて、

彼の手に渡るのは一日六千円。

その下に さらに下請け契約で働く作業員がいるのである。

事故収束作業を行う東 京電力はこの構造に関与しない。

多重請負契約。

その特徴は、

<発注者が、 受注先企業に対して作業上の指示および命令指揮を一切しない>点にある。

闇の中でなにが起きていようが、

東電は関知しない。

これが、原発作業 員の世界だった。

 

本来作業員達はタイベックと呼ばれる白い服の胸元と 背中に所属企業名と名前を記す。

自分はそこに彼が伝えてきた言葉を書 きつらねた。



長野県長野市の松代大圃寧の洞窟を粟津ケンさんに紹介で訪れた。

朝鮮半島出身者によって、二次大戦末期に掘られた洞窟である。

山塊の岩盤をダイナマイト発破掘削法によって掘りすすめていったその洞窟には、

敗戦処理を担う必要があるという名目で、

内務省外務省、印刷局、国の 枢要な機能を移転させる計画が隠されていた。

地元民はなにも知らされ ていない。

ある日から建設資材が運び込まれ、

韓国の言葉を話す男たち がやってきた。

なにも分からないが発破音が響くようになる。

その洞窟の入り口に、

この洞窟の性格を伝える資料館があり、

そこに 詰めている女性が話したのは、

この原発作業員の世界と寸分たがわぬ構造だった。

担ったのは当時の鹿島組および西松組。

日本にいけばいい仕事がある、

西松および鹿島から金をもらって人手を集める朝鮮半島の男たちがそん なふうに触れ込んでいた。

その言葉を信じて、

ダイナマイト使用に通じ ていた技術者、発破で生み出される岩を運び出す男たちが応募し、

松代 へやってくる。

だが、彼らを待っていたのは屋根だけ、ともいうべき宿泊所で、

一本の丸太を数人で枕にして雑魚寝するいわゆるタコ部屋だっ た。

そのタコ部屋での生活にあたって、

彼らを連れてきた人間たちは作業員達に宿代食事代だと言って給与の中抜きを働き、

実際に手にできるの はほんのわずかな金だけになってゆく。

日本人は手をくださない。

彼らを連れてきた男、彼らが暴れないように暴力的に管理する男も朝 鮮半島出身者だった。

日本の警察も関与しない闇のなかで、

戦局は悪化し、

やがて専門知識を備えない者たちもダイナマイトを扱うようになってゆ き、過酷さは加速してゆく。

そのなかで、一人の男が死ぬ。

ひとかどの人物だったようで、

西松組が洞窟のすぐ近くにあった寺に 無縁仏として預かるように頼みこむ。

はじめは寺も断ったらしいが、

西 松組の人間たちの頼み込む気持ちの強さに押され、

男はその松代の山近 くの寺の墓地に眠るこになった。

墓には、中野何某という名前が刻まれている。

だが、それは彼の本当の名前ではない。

創氏改名で名乗っていた日本名でしかない。

彼が生まれた時に、

彼の父と彼の母親がなにかの思いを 託してつけたであろう、朝鮮語の名前は今もって、わかっていない。

な ぜなら、

玉音放送で敗戦を知ると、

西松組および鹿島組は作業員達の名 簿を焼き捨てたから。

そして、

日本政府はやはり今現在に至るまで、

かれの追跡調査を行っていない。

だから、彼の本当の名前はわかっていない。

何人働いていたのかも判 然としていない。

こんなことを案内所で聞いた。

福島の出来事を契機に現れた国および日本社会のふるまいには、

こん なふうな原型が存在していることが多い。

蹂躙と、収奪と、差別と、そ して隠蔽と。

これらが混然として成立するこの構造は、

二〇一一年の事故の後、急場でしかたなく成立したものとは思えなかった。

原発の事故収束作業で人間を集めるためにひそかに各地で動き出していた人間の動き。

組織の動き、制度の動き。

それは使い込まれた機械のようにあまりにも素早く、なめらかに動き出していたから―。

 

韓国の釜山に大日本帝国支配下で行われた強制労働についての資料館がある。

釜山で原発問題を主題とした展示に招待されていた自分は、協力者の方に頼み込んでそこへ向かった。

そこで目にしたもののひとつに、一つの映像があった。

展示の最後にあたる通路にモニターが置かれ、

ある内容が次々に映し出されてゆくのだが、

それはそれまでに日本韓国との調査研究が明らかにしていた強制労働強制連行を用いた

日本企業の法人名一覧だった。

『季刊 戦争責任研究 第51号(2006年春季号)』。

そこに掲載された竹内康人氏の論文『朝鮮人強制労働全国一覧表を作成して』。

その後自分は戦時期の日本社会について調べるようになった。

そのうえでこの冊子および論文を手元に集めたのだが、

この論文の中に一覧の一部が記されている。

 

業務別の部分を見ていただければわかるが、

電力分野において、

現在日本においてメジャーと言える電力会社が軒並み名を連ねている。

東京電力も―。

 

この、酷薄な、誰かがやらなければならない、しかし誰もやりたくはない仕事を闇で誰かにさせる仕組み。

福島の原発事故で用いられたものは

それがかつて存在した『帝国の作法』 とも言うべきものの流用であることに、

自分は気づくようになった。

 

多くの日本人は気づいていない。

そこまで追及してゆく人間の少なさに、自分は一面、恐怖に覚える。