連作祭壇画無主物

『3.10   地震と原発居ないはずの竜を見た所長』

(二〇一六年七月から制作、加筆中 )
 

 

『(書き写し) ●(中略)東電の土木グループが土木学会の先生方に話を聞く中で、

福島で10メートルを超える津波の想定値が出てきた(中略)初めて津波想定値を聞かれたときにどういう印象だったか
 
吉田氏 それは、『うわあ』ですね。私が入社したときに、最大津波はチリ津波といわれていたわけですから。

高くて3メートルぐらい。

10メートルというのはやはり非常に奇異に感じるというか、そんなのって来るの?と。』
  (産経新聞吉田調書抄録(9)より)

   
3.11発災時に福島第一原子力発電所所長だった吉田昌朗氏が死去 したのは二〇一三年七月九日。
 
満五八歳だった。

死因は食堂癌だと言われている。
 
彼については多くの文章が書かれ、

政府事故調による聞き取りの公開 などもなされ、

また断片的な彼の発言映像なども放送されていて情報量 として膨大になっている。

そうした膨大な情報の中に共通して出てくる のは、

原子炉が危機的な状況に陥ってゆき、

限られた状況の中八方手を 尽くすがまた原子炉が爆発を繰り返してゆくという中で、

彼がいくども 死を覚悟したこと、

そして腹を切ろうと思ったこと。


 
彼のことを調べてゆくと、

彼の中では3.11で生じた地震、そして 津波は挙げたようないわば『来るはずのない』ものだったことがわかる。

 
東北沿岸を襲った大地震および津波。
 
吉田所長の中では来るはずのないものであった事態のことを調べてゆ くと、

かなり早い段階で襲来の痕跡は確かめられていた。
 
一九八六年に東北大学地質学の教授箕浦幸治氏が仙台平野の休耕田で 一・五メートルのボーリング調査を行う。

一・五メートルの高さで筒状に 抜きだされた地層を見てゆくと、

海の砂がまじる層がある。

調査を内 陸へ拡げてゆくとこの砂まじりの層は海から離れれば離れるほど薄く なった。

年代測定の結果、

その層が貞観津波(八六九年)のものと確認。

一九九一年にこの調査について書いた論文が学会誌   「THE JOUNAL OF GEOLOGY 」に掲載された。
 

津波堆積物。
 
掘り起こした層には、

貞観津波のもの以外にも砂交じりの層が見つかっ ていた。

それまで昔話や伝承、古文献の中に記されてきたこうした津波の年代とこの調査において行われた年代測定とを照合させると、

誤差は五年ほどのなかに収まることがわかった。

   
二〇〇四年(平成一六年)に最大深度七を計測した新潟中越沖地震が 発生。

このことを受けて原子力業界内でもあらためて発電所施設の地震および津波のリスクに対する再評価の必要性が認識されてゆく。

二〇〇七年(平成一九年)の一月には東京電力内に地震津波対策部門である施設管理部門が創設、

吉田昌朗氏は初代部長として就任。

そのおよそ半年後の七月、

再度震度六強を記録した新潟中越沖地震が発生した。

東京電力柏崎刈羽原発では火災が発生し、

すべての原子炉が緊急自動停 止状態に陥る。

二〇一〇年までの東京電力の収支決算報告書には

この時 の稼働停止が経営面において後年まで影を落としていたことが記されて いる。

目をほかの発電所に移すと、

この時期東北電力の宮城県女川原子力発電 所はあらたな津波対策を行ってゆく。

その想定津波規模は、上記の箕浦 教授の調査結果を参考にしたものだった。

ひるがえり、

東京電力はさし たる対策の手を打たない。

この姿勢は国の専門家筋からも問題視され、

二〇〇九年には吉田昌朗氏は一カ月あたり五%の減給措置を受けることとなった。

その当時の彼の認識が上の最初に挙げた内容になる。

その翌 年の二〇一〇年から、

吉田氏は福島第一の所長に就任。

3.11を経験 するという経緯を辿る。


(福島第一原発一号機と同形、ジェネラルエレクトリック社製沸騰水型原子炉 (BWR) Mark-1設計図)

   
一・五メートルの掘削で八六九年の地層が出てくるということが自分に はおどろきだった。
 
地面はもっと深い。

掘り起こせば名前もつけられていない痕跡がいく つも見つかるだろう。

人間がまだ現れていなかった頃にも大地はあるわ けで、

そうすると、

人間の生のリズムとはまったく異なるリズムだが、

かなりの頻度で地面は動き、波は陸地に押しよせていたことになる。
 
福島の事故でまず危機的な状況に陥ってゆくのはもっとも年式の古い 一号機。

建設が一九六六年、運転開始は一九七一年。

箕浦教授が仙台の 地面を掘り起こす 一五 年ほども前になる。

その頃のこの地方の津波襲来の 痕跡は、

やがて人間に撲殺されてゆく妖怪が

ただ一人やさしく遇してく れた少女にひそかに地震と津波の襲来を告げる民話、

古文の記録などし かない時期にあたる。
 
そんな場所に建設されたのは発電所。

かつて多くの人間を消滅させた核反応を利用 し、制御する発電所だった。

 



 
龍が棲んでいるようだ。思う。

 
その龍は人間からすればいないかのようにごくゆっくりと、

時折目を 覚ましてねがえりをうつ。

太古からその土地の深い場所に棲んでいた。

吉田所長という男は、

そのいないはずの龍のちからを目の当たりにした男のような気がする。

実際に動かしてきた吉田所長が腹を切らねばなら ないと思い詰めるような状況に追い込まれたのが 3.11 だった。

現在各地で原発が再稼働してゆくなかで、

もし吉田所長の霊がいるならば、

その 動きを進めるかつての彼と同じ電力会社の人間達に龍のことを話すかも しれない。


生きている間には言えなかったが―。

 



余談だが、この竜の描いた後に知ったことがある。

地震活動期に際して、竜の絵を描く風習というのがかつての日本には あって、

そこには竜が円を描くように描かれ、

その中に当時通用してい た行基図と呼ばれる日本列島が配されていた。

歳時記のように、

月ごと に市井の人間が留意すべきこと(冬には火のもとに注意しろ、だとか) が一二か月分書かれて、

しかしそれよりも目立つ上の部分に歌が添えら れる。

ゆらぐとも

よもや揺れじな

かなめいし

かしまのかみの

いますかぎりは



鹿島神宮と香取神宮にはそれぞれ要石というのがあり、

地中に居て時折大地を揺らす巨大なものを動かないように突き刺しているという信仰がある。

この歌は地震活動期においては震災除けのまじないとして、玄 関に張られていたのだという。

竜絵、と呼ばれるこの図の現存する最古の物は建久九年、鎌倉期の 一一〇〇年代の物。

ほかにも寛永三年の一六〇〇年代の物のほか、

時代 を経てもこの風習が存続し続けていたことを戦時の地質学者だった野田三郎氏は記している。

 



(Tatsu-e : dragon paintings was Japanese habitual expression when big earth quake happened.

left 1198, center 1624, right 1854)

 

知らず知らずのうちに、自分は喪われた行いをしていたわけだ。

絵を描くという行為には、こんな発見することが時折ある。