連作祭壇画無主物

『SPEEDI問題と母乳』

(二〇一七年四月から制作、制作中)
 

 
博多Tetra での展示が機縁になり、

北九州で3.11後の避難者および移住者受け入れをされてきた方(「絆プロジェクト北九州」)代表未紀さん)に原発事故避難者の話を聞いたことがある。

こんなことを話されていた。

―その団体で専門家をまじえて放射性物質含有検査を整えた。

関東のとある場所から移住してきた女性が、自らの母乳を検査にかける。

摂取するものに細心の注意を払い行動もしていたはずなのに、セシウムが検出されてしまう。

その検出結果は、つまり、その乳を彼女はそれまでこどもに飲ませていたことを明らかにしてしまう。

女性はその結果を知り、泣きくずれた。

避難前の関東のとある場所で、水の配給に彼女、並んでいたのだという。

この辺りを話される際に、代表の方も涙をこらえきれなかったのを覚えている。
 
 
母親、一人。


 
九州の他の受け入れ団体の方も仰られていたが、母親の危機感の持ち方と父親のそれとでは天地ほどの開きがあり、

離婚に発展したケースが少なくない。

トータルでどれだけの夫婦が壊れたのか、ここも一つの闇となっている。
 
二〇一七年三月、

福島県は県外避難者に対する住宅の無償提供打ち切りを決定した。

理由は、

通常の生活を送れる目途がたったから、という。

災害救助法の無償住宅支援制度は、本来的な運用であれば、大地震、津波などの天変地異によるインフラ破壊に際して行われるもので、

福島の原発事故のようなものは運用条件としては想定されていなかった。

だが、放射性物質拡散を原因とする土壌を含む環境汚染事態にも例外的にこの制度が運用され、

繰り返しになるが、事故後六年の間、

例外的に福島県から県外に避難したひとびとに無償で住宅が提供されていたのだ。

このあたりの例外的な運用を続行しつづけることの問題点も追及されて、

この打ち切り決定に至っている。
 
避難者の多くはこどもを含んでいる。

経済的な理由で二親がこどもを連れて移住するケースもあるが、

稼ぎ手の父親は福島にそのままとどまり、

母親と子供が県外に避難し、父親はこの二つに分裂した世帯を経済的に賄わねばならない、いわゆる二重生活の状況が生まれた。

こどものなかには乳幼児も含まれ、

母親が働きに出られないケースもある。

この生活状況の中から補助されていた住宅費が抜けることになると、

彼らはふいに、

月何万の稼ぎを得なければその住居での生活を維持できなくなることになる。
 

県外の、その住居を出るか。
 
福島へ帰るか。


 
福島県はこの打ち切りに際して、

月額で二一万与の収入に届かない世帯には上限で三万円の補助を行う方向に切り替えた。

また、福島に帰還する世帯には、

二〇一七年三月までに移転することを条件に、

移転費一〇万円を補助することも打ち出してきた。
 

福島に帰って来てほしい。
 

これらの性格の補助額の多寡に、公の思惑がにじんでいる。
 

 

避難する際、夫、舅、姑から反対されながら、

泣きながら

一人で決断してなかば強引にこどもを連れて県外に出た母親に話を聞いたことがある。

そんな夫に愛想を尽かして、避難先で離縁する母親の多さは前述した。

そうすると、

彼女たちはもどるべき福島にはすでに戻る場所がないということになる。

加えて、

除染が終えられたという福島県内の場所も、

厳密に測定してみると

依然として事故前の東電の内規では警戒のアラームが鳴り、

ガスボンベを着用せねばならなかった汚染状況がそのままに存在し、

甲状腺癌のこどもはその数を増加させ続けているという状況が存在している。
 

戻る?
 
どこへ―?
 

そんな思いを抱えながら、

路頭に迷うかの選択に身をよじらせている母親たちが今現在、存在している。


 
二〇一七年四月一一日、

文部科学省は

原発事故を理由とした避難者のこどもに対するいじめ発生の途中経過を発表した。

把握できた件数で199 件のいじめが発生していたという。

そのおよそ一月前の二〇一七年三月八日、

そんななかの一人(横浜の件)が、

小学六年生の頃にひそかに綴っていた手記の全文を公表した。

以下、全文

『としょホール  教室のすみ
 
防火とびらのちかく  

体育館のうら  

3人からどれかしらでお金をもってこいと言われた。

Aからはメールでも言われた。

人目がきにならないところでもってこいと言われた。

お金もってこいと言われたときもすごいいらいらとくやしさがあったけど

ていこうするとまたいじめがはじまるとおもってなにもできずにただこわくてしょうがなかった。

いろんな人とかが(金を払ったのは)○○(自分の名前)だと言われてるが

うらでは、A、B、Cがしじしてる。

てんこうしたときなんかいつもけられたりランドセルをふりまわしたり

いつもこわくてなにもできなくてほんとうにつらかった。

4月もゲーセンにもいってるのに、A、B、Cはずっとだまっていて、

やつらはほんとうにむかつく。

ばいしょう金あるだろと言われむかつくし、

ていこうできなかったのもくやしい。

A、Bにはいつもけられたり、

なぐられたりランドセルふりま(わ)される、

かいだんではおされたりして

いつもどこでおわるかわかんなかったのでこわかった。

ばいきんあつかいされて、

ほうしゃのうだとおもっていつもつらかった。

福島の人はいじめられるとおもった。

なにもていこうできなかった。

しえんぶっしをとられてむかつく。

だれがやったかわからないけど

きがつくとえんぴつがおられてる。

そしてノートにはらくがきをされてた。

いままでいろんなはなしをしてきたけど

しんようしてくれなかった。

だからがっこうはだいっきらい。

なんかいもせんせいに言おうとするとむしされてた。

学校も先生も大きらい。

いままでなんかいも死のうとおもった。

でも、

しんさいでいっぱい死んだから

つらいけどぼくはいきるときめた。

みんなきらい

むかつく

5年のたんにんは

いつもドアをおもいっきりしめたりつくえをけったりして

3.11のことをおもいだす。』

 

 

2014年8月29日。

第二次福島集団疎開裁判の記者会見が行われた。

壇上には4名の女性がこの原告支援団体の人間とともに座っていた。

女性たちはそれぞれ母親で小学生のこどもを抱えていた。

みな、彼女たちはマスクをしている。

母親たちの脇にはこどもたちがいて、彼らもマスクをしている。

会見が始まると、

一人のフランス人ジャーナリストからおもむろに立ってカメラを構えた。

原告たちの様子を写真に収めようというのだった。

すると、支援団体の女性が飛んできて

「だめ。だめ。カメラはやめて。」

と制した。

原告者たちはみな、顔がばれることを恐れていた。

原発事故後の福島からの避難者数。

この数について内閣府が統計を公表していた。

もっとも多かったのが2012年1月26日付で把握されていた数で、

その数62.808人。

この数はその後減衰傾向に入ってゆく。

この数は件の災害救助法に基づく住宅支援策に応募した数とみられている。

無論、

この制度に応募していない避難者数もいるのであって、そこからするとこの数も最低限の数と言えるだろう。

2012年当時の福島県の県民人口は198万人だった。

こうした観点から、

避難者数というのは県民人口のおよそ3パーセントにしかならない。

彼らは、文字通りのマイノリティだった。

壇上の母親たちも―。

 

話題を戻そう。

この訴訟の大本にあたる

第一次郡山集団疎開裁判は

2011年6月24日に提起された。

その訴えは福島県郡山市に対して以下のことを認めさせる内容だった。

すなわち、こどもは安全な環境で教育を受ける権利が憲法で保障されている、ということ。

この訴えに対して福島地裁は却下。

そして仙台高裁も却下という判断を下した。

福島地裁の判断は以下のような理由に基づいていた。

つまり、訴えの提起された2011年においては原発事故が原因と思われる健康障害が現れていないこと。

この時の原告は当時郡山に住民票があった14名の中学生とその親たち。

この裁判は福島地裁の判断を不服とした原告たちにより仙台高裁に控訴された。

こうした流れのなかで、

福島のこどもの甲状腺の状態タイする調査データが公表される。

そのデータは原発事故以前には見られなかった

甲状腺の嚢胞および結節が観察されたという内容だった。

この調査は環境省の下、当時の名称で福島県民健康管理調査委員会により行われ、

この兆候の公表により、仙台高裁の三人の裁判官たちは異例の長考を強いられることになった。

だが、

2013年4月23日に下された彼らの判断は、原告の訴えの却下、だった。

その判決文にはこんな彼らの文章が含まれていた。

 

  (判決文からの引用)  

『チェルノブイリ原発事故によって生じた健康被害,福島 県県民健康管理調査の結果,

現在の郡山市における空間線量率等によれば,子どもたちは,低線量の放射線に間断なく晒 されており,

これによる,その生命・身体・健康に対する被 害の発生が危惧され,由々しい事態の進行が懸念される。

この被ばくの危険は,

これまでの除染作業の効果等に鑑みても, 郡山市から転居しない限り容易に解放されない状態にある。』

 

郡山に住むことによる被曝の健康対する影響をはっきりと認め ながらも、

原告の十四名の家族が<すでに郡山から避難してい た>ことを指摘、

郡山にすでに在住していない人間が郡山から の避難を求めることは成り立たない、

こんな論理で却下とい う判決は導かれたのだった。

地元に戻っての同じ提訴も考えられたのだが、

原告の家族たちはすでに避難した身として、

戻ること は選ばず、

この高裁判決でこの裁判は一旦は終了した。

 

「ーこの裁判の原告になろうと決心された理由をお聞かせください」

記者会見に臨んでいたメディアの人間から壇上の母親たちに質問が飛んだ。

壇上の母親たちは前述した第一次裁判には参加していなかった。

原告の数は初回の14名中学生と親御から増えて、

24名の親とそのこどもたちになっていた。

彼らの所在地も郡山のみならず福島の各地に点在していた。

その訴えは初回の訴訟と基本的に変わらない。

 

<こどもたちの、安全な環境で教育を受ける権利が憲法によって保障されていること。このことを福島県に確認させること>

そこにもう一つ付け加えられていた。

<日本国および福島県に対して、彼らがこどもたちを無用な被曝から守ることを怠ったこと、そのことついての賠償を求めること>

 

原告は一人当たり10万円の賠償を求めていた。

彼女たちがなぜ事故から三年を経た段階で原告となったのか?

たしかにそれは自分でも聞きたいところだった。

そこで彼女たちが答えたのは、

原発事故から三年を経た段階でのこどもの健康状態についてではなく、

こどもの鼻血についてだった。

 

 

事実、

自分が乗っていたこの訴訟が送り出した応援バスで、一人の女性と話し込んでいた。

実は彼女も原告の一人で、

彼女もこどもの鼻血について話していた。

2011年の原発事故後まもなく、

彼女はこどもを連れて関東のとある場所に避難した。

それからその年の夏に郡山へ戻ってきたのだが、

それから彼女のこどもが大量の鼻血を出すようになる。

そしてそれに加えてこどもの体に今までになかった湿疹が全身に現れるようになった、

彼女は自分にそう話した。

この症状はこどもだけではなく、

話をしてくれている女性にも同じように現れたのだという。

尋常ならざるものを感じて、

彼女は福島から移住を決意していた。

この福島での原発事故後にこどもに発生した鼻血の問題について、

日本では名の知られている漫画が取り扱った。

それに対する反応は、

その事態に対して真摯に受け止めるというものではなくて、

テレビ画面上で<専門家>と紹介される人間たちが現れて、

想定された被曝線量のデータからすると鼻血が出ることはあり寝ない、

その事態の放射線被曝との因果関係を否定するというものだった。

それはテレビのみならず新聞および週刊誌もろもろでも同じだった。

つまりは、この問題は<ありえない>こととする言説の流布のメディアによる大量に流布。

それが発生した出来事だった。

こうした背景にのり、鼻血が発生したことに関連付けるデータなどの信頼性も疑われるに至っていった。

しかしながら、

その陰で、

当時檀上にいた母親たちは実際鼻血を出すこどもを抱えていたことになる。

彼女は実際にそれを経験していたのだった。

この話はなにもこの時に聞いたのに限らず、

それまで、その後に福島の各地で出会った母親たちから幾筋も自分は聞いていた。

彼女たちにすれば、

この鼻血の問題はただ有名な漫画の否定という話ではなく、

彼女たちのこどもの存在に対する社会的な抹殺だった。

 

「―よく言われるんですけど、わたしもこれまでは<声を上げない福島県民>の一人でした。

でも、

声を上げることに決めました」

壇上の一人の母親がそう、言った。

 

SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)。

公費120億余の公費で投入されたこの設備は、

文部科学省下にある放射能安全技術センターにより運営され、

もし原発事故が発生した際にはいち早く放射能を含んだ気流の動向を予測計算し、

一般住民の被曝を予防するために運用されると謳われていた。

しかしながら、

いざ福島の原発が事故起こると、

このシステムでのデータはまず日本の一般人から秘匿された。

沖縄の新聞がスクープで、

このシステムのデータがまず在日米軍司令部に提供されていたことを暴いた。

福島の原発事故が起きると、

在日米軍司令部から電話を受けた外務省がこのデータについて文部科学省に問い合わせ、

このデータが在日米軍に自動送信されるように設定された。

この送信後にそのデータは自動的に消去される設定をほどこして。

当時の内閣総理大臣および閣僚は事故後の調査において

はこのシステムの存在について聞かされなかった知らなかったと口々に言っていたが、

事実は闇の中にある。

いずれにせよ、

このシステムのデータが日本の一般人に向けて公表されたのは原発事故発生から25日後。

何の、意味もなかったわけだ。

 

 

小佐古敏荘。

この男は東京大学の原子力工学の教授だった。

彼はその専門性から福島の原発事故後に内閣により抜擢され、

内閣官房参与となる。

2011年4月29日。

その彼が記者会見を行った。

この会見で

彼は内閣官房参与の職を辞することを泣きながら表明した。

その理由は

政権によるこのSPEEDIのデータ隠蔽

と、

そして原発事故後福島県民のみに対して引き上げられた追加被曝線量年間20ミリシーベルトは

こどもに対してはあまりにも危険すぎる、

というのだった。

 

小佐古敏荘。

彼は広島原爆の被曝二世だった。

彼は福島の原発事故が起きる前は、

原爆症認定却下訴訟で、

当時の厚労省側の参考人として

原爆投下後数十年を経て現れた原因不明の健康異常を訴える原告たち

(彼らはみな被曝手賞をもっていた)の訴えを切り捨てる側の人間だった。

彼と同じく、広島で被曝した経験を持つ人間たちを。

米国が主として練り上げた原爆事故の被曝線量シミュレーション(DS)に基づき、

理論上年間追加被ばく線量1ミリシーベルトを下回ると想定される原告側に現れた健康異常を、

数値に照らしてみれば発生するはずがないと切り捨ててきた。

そして、福島の原発事故が起きる前までは、

日本の各産業推進の急先鋒の学者の一人として生きてきた。

それが、彼だった。

その彼を感情失禁させた数字。

それが、福島県民のみ引き上げられた

年間追加被ばく線量、20ミリ―。

 

「科学者の一人として、

とうてい

私には耐えられない」

 

テレビ画面の中で、

そんなことを言って、

彼はその職を辞した。

 

 

母乳からセシウムが検出されてしまった母親。

もし、このSPEEDIが謳われていた通りの機能を果たしていたら、

彼女は泣き崩れることもなかったのかもしれない。

2018年3月、ある事件が報道された。

福島からの避難者だったある女性が、

首を括って自死した。

彼女には二人子どもがあり、

避難先の住居でまだ娘と暮らしていた。

彼女について書かれた文章を読んでみると、

彼女が避難生活を続けるかどうかで

夫とやはり意見衝突があったこと。

離婚をちらつかされる状況にあったことが記されていた。

避難を選んだ彼女には、

戻る場所は福島になかった。

公的な住宅支援の中止は、

この母親を重度の鬱病を病むまでに追い詰めていた。。

 

 

参考に、

福島の原発事故が起きる前まで日本の社会が持っていた

被曝というものに対する姿勢を示そうと思う。

前述した原爆症認定却下訴訟。

この訴訟は被告は国になるのだが、

これまでの裁判で国側が8割9割敗訴する異質な訴訟となっている。

これまでの判決文を見てみると、以下のような内容が必ず出てくる。

 

『一般に,

疾病の発生の過程には様々な要因が複合的に関連するのが通常であり,

特定の要因から特定の疾病が生じる機序を逐一解明することは困難である。

そして,

放射線に関しても,

それが,がんをはじめとする各種の疾病の原因となり得ることについては,

コンセンサスが成立しているとはいえるものの,放射線に特有の疾病や症状が存在するわけではない。

したがって,

放射性起因性の有無は,

病理学,臨床医学,放射線学や,疾病等に関する科学的知見を総合的に考慮し た上で,

判断するほかはないわけであるが,

これらの科学的知見にも一定の限界が存するのであるから科学的根拠の存在を余りに厳密に求めることは,

被爆者の救済を目的とする法の趣旨に沿わないものであって,

最終的には,

合理的な通常人が,

当該疾病の原因は放射線であると判断するに足りる根拠が存在するかどうかという観点から判断をするほかはない。


『合理的な通常人の立場において,

当該疾病は,

放射線に起因するものであると判断し得る程度の心証に達した場合には,

放射線起因性を肯定すべきである。

そして,このような場 合,

DS86や原因確率の値は,

あくまでも総合的判断の一要素として考慮されるものであって,

単にDS86や原因確率の値が低いということだけで放射線起 因性を否定することはできない。

また,

以上のことは,

確率的影響ではなく,確定的影響が問題となる疾病におけるしきい値の適用や,

現段階においては,

審査の方針において放射性起因性が認められていない疾病についての判断においても同様に考慮されるべき事柄である。』
(以上二件とも2007年3月原爆症認定却下訴訟東京地裁判決文より) 』

 

 

 

福島の原発事故。

その最大の悲劇は、

日本人がかつて被った核災害の顛末、

そしてその末にたどり着いていた司法判断を基とする

自国の社会的合意を

知らずにいることだろう。

スリーマイル、

チェルノブイリ。

被曝という問題について、

それらの経験も参考にはできるが、

手元にもっと確かなものがあるのにも関わらず。

 

手の中の、見えない鍵。