韓国制作版
連作祭壇画無主物

『古里へ、釜山へ、韓国へ』

(二〇一八年 )


「原発からおよそ500メートルの距離にあるこの場所では、

70歳以下の死亡者の99%が癌で死んだ。

この割合は他の町と比べても異常に多いことを町長の立場で調べて分かった。

以前韓国政府の役人にこの事を伝えたが、

因果関係を認められず、

この件に対する補償を与えられなかった。

原発ができる前に住んでいた住民は今は20%も存在しない。

かつて1200人居た小学生は今では100人ほどしか存在しない。

この場所は、

原発があるため国防上の理由から経済的な発展を抑制されてきた。

『原発が健康に影響を及ぼさないと言うならば、

あなたたちは首都ソウルに原発を作ればいいじゃないか』

政府の役人に伝えた。

すると、

『万が一問題が起きた場合に発生する影響が大きすぎるからダメだ』

と言われた。

家屋の解体に関して、

すぐ近くの川の向こう側は200万wonかかるが、

私たち家族の住むこの場所は500万wonかかる。

原発の近くから移住したいのだが、移住させてもらえない。

原発が存在することに対する中央政府からの交付金は、

ほとんど私たちの町の上位行政区であるキジャン市で止まってしまっているのだ。

私はこの町に八世代に亘って住んできた。

故郷で生まれ、

故郷で死にたいのと思うが普通の人間の気持ちだろう。

だが、

私はこの町から出てゆきたい。」
(韓国キルチョン市古里町の元町長 2018年2月)

 

 

2018年、

私は韓国の釜山に滞在していた。

韓国の芸術家達が企画していたあるグループ展に私は日本からの芸術家として招待されていたのだ。

韓国民衆芸術を代表する画家であるSongDam Hongが「核夢2」と名付けたその展示のテーマは原発問題だった。

この展示には韓国で活躍している作家達が7名が参加していた。

福島の原発事故を経験した日本人の芸術家。

私を招待することをひときわ強く求めたのは一人の女性画家JeongA Bangだった。

彼女は韓国第二の都市である釜山の海浜の近くで生まれ、

画家として成功し、

釜山で活動を続けていた。

この釜山から車で一時間ほどの距離に古い原発が存在していた。

その名、

古里原発―。

 

 

この原発は1971年に建設が開始され、

これまで死亡事故を含む幾つかの疑念の残る事故を起こしてきた。

2012年、

国際原子力事象評価尺度(INES)におけるレベル2の事故の発生とその隠匿が原因となり、

最も古い一号機は2012年に韓国政府から運転中止命令を受けていた。

日本の原発事故は韓国のひとびとの間にも危機感を当初呼び、

そのことがこの運転停止命令の背景に存在していた。

だが2011年から数年が経過してゆく中で、

韓国の人々の中の危機感は減衰していた。

 

韓国はかなり長い間大きな地震を発生していなかった。

この展示に際して協力してくれた人々の中に、

ソウルの大学で地震学のリサーチャーをしていた男性がいた。

彼は自分にこんな話をしたのだ。

この分野で日本の研究者が行うのと同じように、

彼を含む韓国の研究者達も韓国に現存する古い文献に地震の記述があるかどうか確かめたと彼は言った。

その結果、

『大地震』と表現できるような大地震の記述は発見されなかったのだと彼は言った。

 

2017年 1回 (マグニチュード5.4)
2016年 2回 (マグニチュード5.0、5.8)
2014年 1回 (マグニチュード5.1)
2004年 1回 (マグニチュード5.2)
2003年 1回 (マグニチュード5.0)
1980年 1回 (マグニチュード5.3)
1978年 2回 (マグニチュード5.2、5.0)

 

これは韓国の気象庁が地震観測を始めた1978年から2017年までのマグニチュード5以上の地震の数である。

およそ40年間で、全部で9回の比較的大きな地震が発生してきた。

この中で、

彼らの観測史上最大となった地震は

2016年9月12日南東部で発生した韓国慶州地震で、

その地震はマグニチュード5.8だった。

参考までに日本の同じ統計を見てみると、以下のようになる。

 

日本
2017年 7回 (最大5.9 :福島沖)
2016年 23回(最大7.3 :熊本県熊本地方)
2015年 10回(最大8.5 :小笠原諸島西方沖)
2014年 8回 (最大6.7 :長野県北部)
2013年 11回(最大6.5 :淡路島付近)
2012年 16回(最大7.3 :三陸沖)

 

5年間で85回。

あまりに多すぎて、

1978年まで辿る気にならないし、

それぞれの詳細を書く気にもならない。

いずれにせよ、

確かに日本と比べれば韓国は地震発生という観点からは安定した地盤の上に成り立っているという認識が

専門家たちの中で敷衍していたのも無理はなかった。

2011年時点では、

日本での大震災も彼等からすれば<対岸の火事>という認識だった。

だが、

2014年からマグニチュード5以上の地震が少し間隔を狭めて発生するようになり、

一般の人々が危機感を薄めてゆく一方で、

そのことが専門家たちに若干の危機感をもたらすようになっていた。

 

福島の原発事故もそうだった。

危機感を持つ者はごく少数派だった。

過疎地に建設された原発で何が起きているのか、

原発周辺の町に何が起きてきたのか、

これらの事についてごく少数の人々が危機感を持ち、

警鐘を鳴らしていた。

だが、

大方の人々は関心すら払わなかった。

だが、一度事故が起きれば、

そうした大方のひとびとも災厄に巻き込まれる。

そうした人々が生活する町は住むことを禁じられ、

放射能汚染された荒れた場所に変貌してしまう。

福島の事故では原発から30キロ圏内は一時的に居住を禁止された無人地帯となった。

事故が起きれば、

JeongA Bangが愛する故郷釜山の町々も無人の土地となる可能性がある。

彼女は焦燥感を感じて、

自分と出会う前から渡米して核問題の取材を行っていた。

 

 


韓国のその原発は、

韓国政府の気象庁が地震観測を始める1978年よりも前の1971年に着工された。

「その場所に原発が存在するから」

そんな理由で、後続の原子炉が同じ場所に建設されていった。

およそ30キロ先に、韓国第二の都市がある場所に。

私を招待することに熱心であった女性画家JeongA Bangは、

前年に一人の日本人写真家の展示を釜山で観たと私に話した。

その展示に際して行われたアーティストトークで、

その日本人作家は福島の原発事故から6年が経過し、

事故のダメージから福島は立ち直りつつあることを繰り返し話したという。

「彼は嘘をついている」

それを聞いて彼女は、

その日本人写真家の展示を企画した知人に怒りの言葉をぶつけた。

彼女が知りたかったのは福島の原発事故がもたらした災厄の実態であり、

そして<もし釜山からほど近い原発で事故が起きたら何が起こり得るのか>ということだったのだ。

確かに、

私が表現していることは復興の陰で進行している深刻な事態だった。

彼女を始めとする作家たちから支援を受けて、

私は釜山で三か月ほど滞在し、

絵を描くことになった。

大事なことは、

釜山の原発近くの町へ行き、現地人に話を聞くことだった。

幸い、

この取材に釜山のテレビ局が協力してくれ、

通訳が付いてくれた。

彼女の助けを借りて私は周囲の人々に話を聞いて行った。

通訳の女性に、

私の目に入る看板が何を意味するのか、

片っ端から日本語に翻訳してもらった。

すると老人施設を見つけた。

この土地に長く住んできた人々に出会う可能性が高い場所。

入り口に一人の初老の男性が居た。

その彼に挨拶して話を聞くと、こんなことを言った。

 

「私は日本から来た旅行者でたまたまこの町に来たのです。

初めて来た場所なのですが、

この場所はどんな町なのでしょうか。」

 

私はそんな嘘の自己紹介をして質問した。

それは福島でも住民に話を聞く時に行ってきた手法だった。

 

「この町は原発の町さ。原発が不安でしようがないよ。」

 

彼は80年代に原発を建設する土木作業をする労働者としてこの町に移り住んできた男だった。

この施設で、

元町長だった男性からも話を聞くことができた。

彼が語ったことが最初に揚げた言葉である。

 

彼は八世代、この町に住んできた。

代々その場所にm住むも人々は居たが、

そのほとんどは原発がやってくると土地を売って他の場所へ移住してしまったと言った。

子供たちもいるにはいるが、

車で町の小学校へ通わせることが通例になっているのだという。

この町には高いビルが存在しなかった。

防衛上の理由から原発を高所から覗き見する場所を作らない方針が採られ、

また人が集まるような商業施設の建設も禁止されていた。

 

(冬のような場所だ)

 

私は彼の話を聞いて思った。

 

 

原発が来る前は、

この海辺は海水浴場だったと彼は言った。

私が彼に彼の家族の昔の写真のコピーを頂けないかと伝えると彼は応じてくださり、

何枚かの写真データを頂くことが出来た。

彼の父、母、祖父、祖母たちがまだ若かった頃の写真だった。

その中には海水浴場で並んで立っている地元の女性たちの写真もあった。

だが、おそらく皆この場所にはいないはずだった。

皆、逃げて行ったのだ。

暖かい方へ。

 

 

そんな意味から原発に縛られた彼と、蝶の羽を持ち明るく輝く都市へ子供を連れて逃げてゆく人々を描いた。

また、彼の写真から彼の先祖たちの霊を描いた。

彼らは昔のその場所の面影を示しているように表現した。

日本で行ってきたように、

私はこの絵が完成すると釜山の町の中に絵を運んでいった。

地下鉄の電車の中に置き、

裕福な人々が住むビーチへ持って行った。

私は勝手に砂浜の上にこの絵を設置した。

そこで出会った人々のうち一人として、

彼が私に語った内容、すなわちそう遠くない局所で起きていた事態について知らなかった。

彼らは知って驚くのだった。

事故が起きれば、この場所もまた無人の地となるはずだったのだが。