連作祭壇画無主物

『原発事故避難  残酷な対比二 双葉病院事件』

(二〇一六年八月 )

「ついに第12旅団輸送支援隊のバスが、

いわき光洋高校に その姿を現す。

双葉病院を午前10時半に出発してから、す でに10時間近くが経過していた。

田代校長がバスに入ると、 中は異臭が立ち込めている。

バスの床に転げ落ちたままの人、 毛布に包まりまったく動かせない人、オムツが外れ排泄物を 垂れ流しにしている人…

それは言葉で表せないほどに凄惨な 様子だった。

バスには自衛隊の医官も、病院関係者もおらず、 避難患者のリストすらない。

病院関係者が一人も付き添いし ていないことを知り、田代校長は非常な怒りを覚えた。』  
  (hazard lab 連載第43回『大鷲の憂愁獅子の涙11』から)

   
3.11発災から三月末までに、四〇名の死者を出した病院がある。
 
双葉病院。

 
福島第一原発から四キロ地点にあったこの病院には、

事故前まで 三四〇名の多くのねたきり認知症患者が、

そして付属する老人施設には 九八名の入居者がいた。

原発事故に際して他の病院と同じようにこの双葉病院の入院患者も警察自衛隊協力のもと救助避難されてゆくのだ が、

原子炉の爆発が事態をさらに困難にしてゆく。

一二日の爆発は自衛 隊の一時撤退という事態を招き、

まる一日、

病院関係者六名は重篤患者 一二九名と取り残されることとなった。

物流も絶え、電気も来ない。

原 子炉が爆発する極限状況のなかで、

蝋燭の灯りの下、

一〇〇名を超える 重病人とともに取り残された状況というのも想像するにすさまじいもの がある。
 
一四日には救助を再開した自衛隊により(ねたきりの人間の搬送に関 して混乱が生じたのだが)一三二名がバスに乗せられて逃がされてゆく。

いっぽう、

一五日までに、そのまま病院に残されていた者から四名が死亡。

避難バスに乗せられた一三二名はまず、北の保健所へ。

原発爆発後の移 動であるため、避難者に対する放射能汚染程度のチェックをしなければ ならない。

一四日の午前には再度原子炉の爆発が生じていた。

酷寒。

チェッ クが終わると次に、預かってくれる先を見つけねばならない。

ほうぼう 関係者が電話をかけて連絡しまくるが、あてが無い。

他の病院もすでに 避難者を受け入れて飽和状態だった。

一時的に預かってくれる場所が見 つかる。

いわきの高校の体育館。

避難者である患者たちの状態は医療関係者が居なくとも体育館でも問題ないと説明を受けた校長が許可した。
 
南へ。
 
だが、

直線ルートの南下はできない。

原発が途中にあるから。

しかた なくコの字を水平方向に逆にした経路で九時間、二〇〇キロの道程を自 衛隊のバスは行くことになった―。
 

高校にバスが到着した時の模様が上に挙げた文章になる。

バスの中で 三名が死亡。

翌日早朝までに一一名が命を落とした。

福島には自衛隊の訓練場がいくつかある。

双相地区の若者にも隊員は 少なくないと聞く。