「感覚」

1200×920mm

2003

 

花園町にきょうだん公園という名の公園があった。

経壇、と書いた。

あちこちに空地の目立つさびれたような住宅地にあった公園で、

ぐるりを桜で囲まれ、白詰草が下生えに密生していた。

花園町の一帯のこどもらは夏の午後にはその公園にあつまり、

知り合いかそうでないかの区別なく、

真ん中の小高くなったところに池を見下ろすようにあった

屋根付きの木のベンチのまわりにやどかりの群れのようになってうずくまり、

地面に空いている小さな穴を桜の小枝で無心にほじくって

蝉の幼虫を捕らえたり、

隅に設置されていたブランコに乗り、いきおいをつけて靴をどれだけ飛ばせるかを

たいして口も聞かずに競争したりしていたのだった。

限界まで勢いをつけてこぎ上がったブランコからいきおいをつけて右足を振り抜いて

空たかく飛ばされた靴は、こどもごころに50mは飛んでいたように思えた。

(じぶんはまんざらでもないのだ)

夏の午後の空をたかだかと突っ切って、

50m先(と思われた)の白詰草と土の地肌のみえる地面に落っこちた靴を

そんな手ごたえを感じながら取りにいっていたように思う。

片方だけ素足のあしうらで土をふんで、

草の匂いのするなか汗をかいてそんなことをしていると

市役所が夕の五時になると鳴らす童謡のサイレンの音(なんの曲かわすれた)が

聞こえてきて、

それを合図にみなそうそうに解散してゆくのだった。

 

公園には右手にわりとおおきな池があった。

そこにどういうわけか一匹のあひるが棲んでいて、

たいした柵がある訳でもないのに、

膝下くらいしかない高さの石柱がならんでふとい鎖がわたされたなかを

律儀にまもって、

水の上をただよったり、その鎖のふちをぐわぐわとなにか言い言い悠然と歩いたりしていた。

おれの通ったいずみ幼稚園は坂をのぼって田付川を渡った先の中川原にあった。

幼児の足にはすこし遠い距離で、母は毎日おれを自転車のうしろに載せて、

朝昼送り迎えしたのだった。

帰りに花園町へはいってくると、

自転車を降りて公園にはいってあひるを眺めるのが習慣のようなものになっていて、

おれはあひるを見ると、えびせんべいがないか、母にいつも訊ねるのだった。

水のうえをただようあひるにむかって、えびせんべいを投げたことがあって、

嘴でひろって食ったのである。

いつはじめたのか忘れたがそれがたいそううれしくて

母の金が許すときにはせんべいを買ってもらいやったのである。

するうちにだんだんとあひると距離が縮まり、

ある日などは柵沿いをあるくのを手渡しでせんべいを与えたこともあった。

 

ある雨の日に、

どういうわけかひとりで長靴をはいて、傘さして

公園にいったのだった。

春だったような気がする。

葉桜となった桜にやわらかな雨がさしかかっていた。

公園の中にはいると、

ひと気が失せていて、白詰め草がひそやかに雨露にぬれて草の匂いがたっていた。

と、その右手の先の方の草の上を、あひるが歩いていた。

ひとがいないことに気をゆるしたのか、

池の柵からぬけだして、尻をふって歩いては足元の地面の新芽かなにかを

ついばんでいた。

しばらく見とれて、

その場に立っていた。

それから、あひるを追った。

あひるはけっこうな足でよちよちと逃げ回り、ぐわぐわと啼いた。

捕まえてどうしようというのか、自分にもわからなかったが

とにかくからだに触れてみたかったのである。

結局捕まえられなかったが、

誰もいない雨のなかを、あひるを追った。

 

公園のすみに、石の便所があった。

トイレ、とは言えない、便所だった。

喜多方にはときおり見かけたのだが、それはごく古いもので

男子用に小便をするところには便器がなく、

石のたたきがあるだけでそこに小便する方式のものだった。

そんな便所は流れもたいてい滞っていて、

悪夢のような悪臭を発して、大便用の個室は覗きたくもないほどのものだった。

夏の日に、そこで一匹の雌猫をひろった。

 

幼稚園の帰りに小便がしたくなったので、

その古い便所にはいると、

小便をするところになぜか糞まみれになった子猫がいた。

啼いていた。

小便することを忘れて、自転車の脇の母のもとへいった。

「ねこがいるよ。」

助けだしてやりたいのと、飼ってはくれまいか、

そう言うと、母は便所をのぞきにいった。

ふたりで、電気もついていない暗がりに声を響かせて啼いている猫を見ると

哀れだったのだろうか、母は買い物のビニール袋を空にして取ってきて、

素手でその猫の首をつまみあげるとそのビニール袋に入れ、

おもむろに自転車にぶらさげて持ち帰ったのだった。

掌に乗るほどの子猫だった。

帰って、いやがるところを風呂場で洗い流してやると、

見違えるほどの美しい雌猫だった。

白黒の和毛の和猫で、利発そうな目をしていた。

それ以降、家にはいつも入れ代わるようにして、貰ったり勝手にやってきたりして

たえず猫がいるようになるのだが、

そのはじめての猫となるその雌猫におれは「ニャーニャ」という名をつけた。

単純に「ニャ−ニャ−」言うからで、それが適しているように思えたのである。

なにを食わせていたのか思い出せぬが、

その猫は育つにしたがって利発さを発揮して、

冬の日に、みなが寝静まっているところを

ひとりしきりになにかを訴えることがあった。

起きてみると、消防自動車のサイレンがほそくとおく鳴っていて、

父はそれを合図に真夜中に跳ね起きて、取材にでてゆく、

そんなことが一度ならずあった。

しかし、しなやかで利発なニャーニャは、

娘盛りになると猫の間でも人気があったのか、

どこかの野良のような雄の雉子猫と仲良くなり、家の軒先にその雄猫を連れてきて

睦みあっているすがたを見せているうち、いつのまにやらどこかへ行ってしまった。

さみしいような気がした。

 

 

あひるもいつのまにかいなくなっていた。

死んだのか、それとも水が汚くなったのか、姿を見せなくなっていた。

どこかむなしいような気持ちでからっぽの池の脇を通り過ぎるようになっていた。

夏の晴れた午後だった。

喜多方へはじめて越してきた日にとおりがかって声をかけた少年と

また道で出くわして

ふたりでぶらぶら歩きだした。

冷蔵庫ばかりが投棄されている空地にいってひとつひとつなかを開けてみてまわったあと、

なにを話したのかまるで思い出せないが、

それから公園へやってきて、別れた。

ひとり取り残されたようになったおれは、

池の端にゆき、

鎖をまたいで柵のなかへ入ったのだった。

池の縁には丸くなった川石がはめてあってそのうえに苔が生じて

滑りやすくなっていたのである。

ぼんやりと、無心にその川石のうえを歩いていると、

バランスを崩して足をすべらせて右足からなかへ落ちた。

水は、みどり色に澱んで底がみえなかった。

からだの全体重の乗った落ちた右膝に

下から差し出したなにかがごく、と当たるような重く鋭い感触がして痛みがはしり、

足をあげてみると

血まみれになっていた。

澱んだ汚水のなかに鉄の切れ端か大きなガラスかなにか鋭利なものがあったのだった。

 

うまれてはじめて見るほどの流血だった。

加えて、膝下が動かなくなっていた。

おれは、泣いた。

公園にはだれもいなかった。

蝉の声がしているばかりで、桜の幹が影になり爽やかな夏の風が

わたってゆくばかりなのがいやに恨めしく思えた。

血をみておどろいたのと、反射的に助けをもとめて泣いたのかもしれなかった。

しかし、だれも公園にはいってこなかった。

血が流れつづけ棒のようになって動かぬ右足を

まさに小振りな丸太をひきずるようにして、

公園を出て、

田の間でとりすがる壁のないところはセメントの道を這うようにして進みはじめた。

その間も泣叫んでいた。

一生分のうちのかなりな部分を泣き叫びながら

人家の塀にすがり、じりじりと先をすすむのだが、

どうにも芙蓉の花がのぞくばかりでおとなは現われず、

いつもは二分とかからぬところがずいぶん遠くに感じられた。

家のある区画ちかくに来ると、

通りで談笑していた近隣の主婦たちがおれを見つけて、

仰天して母を呼びにいった。

 

「どうしたのッ」

「きょうだんこうえんのいけにおっこちた。」

血相を変えた母はおれの右膝をマキロンで消毒してタオルをきつく巻き、

タクシーを呼びにいった。

父は仕事中のようだった。

やってきたタクシーに乗せられ連れてゆかれたのは

花園の家から一番近い、諏訪の中央商店街の端にあった

手代木病院という小さな古い劣悪な病院だった。

病院のなかへ通されるとさして待ち合いはおらず、

そのままなかへ通された。

事情を母が説明すると、

おれは手術台に寝かされ、いそぎ応急手術をすることになった。

母が外へでてゆき、

手術用の目がいくつも集まったような照明をはじめて見上げていると、

顔を思い出せぬおとこの医師はくらがりのなか奥へひっこみ、

看護婦ばかりがふたりほどおれを囲んだ。

消毒した後、手許で針に糸を通すと、

看護婦がおもむろにちくちくと傷を縫合しはじめた。

「痛かったらいってくださいね。」

そんなことを言われるのだが、膝には感覚がなく、

ただ表の薄皮が引き攣れるような感覚ばかりがあった。

こどもごころになにか違和感を感じたのだが、

しまいまで医師はあらわれず、傷は縫いあわされたのだった。

化膿止めの抗生物質をあたえられ、しばらく休むように言われて、

家へ戻り、二三日寝込んでいるうち、

ひどい高熱がでてきた。

傷が化膿したようだった。

喜多方の小病院にはひどいものがおおくて、

兄が押切川の川原で学校の芋煮会(秋の紅葉のさかりになると川原や、

山林のなかの沼ぞいで豚汁を食うのである)で、燃料の薪を割ろうとした拍子に

手を滑らせて左手の人さし指を鉈でしたたかに割ったことがあったのだが、

そのときも第一小学校のちかくにあった病院の老爺の医師に外れかけた指を

ごくおおざっぱに処置され、

「うごけばさしつかえねえべ」と言われたそうだった。

田が多くて、耕作具で手指を切り落とす農家の子が毎年刈り入れの時になると

ときどきあらわれるのだったが、

そうして切り落とした指を、そんな町医者が表裏まちがえて接合したという

怪談のような話は喜多方ではよく知られた実話だった。

しかしそのころはまだ越してきたばかりで、

そんなことは知らなかったのである。

つたない処置がたたって、

おれの熱は40度に達し、母は気をもんで馬場の田付川沿いにあった喜多方病院という

中規模の病院へ連れていった。

すると、この傷はうちではみれない、と言われ、

会津中央病院という、

会津若松にある会津で一番規模の大きな病院へ至急救急車で搬送されることになった。

夜中に救急の診察室に運ばれると、

傷が化膿して、足が腐りはじめている、

壊疽がはじまって壊疽ガスが出ている、と言われた。

このままでゆくと足を膝下から切らねばならぬ、母はそう告げられ、

最後の対処として傷口に管をいれ、抗生物質を傷口に直接注ぎこんでみることになった。

長い入院生活のはじまりだった。

 

二人部屋に入院することになったが、

おれしか患者のいない部屋だった。

真夜中に、

足に入っている管にちぎれた肉の組織かなにかが詰まることがあった。

そうすると抗生物質の流れが止まるのだが、

なにか強烈な痛みを発するのだった。

始終痛みはあるのだが、そのときの痛みはそれは強烈なもので、

神経をにぶく重く圧するような鈍痛におれはたまらず悶絶するのである。

点滴のようなところに薬のしずくが一滴一滴落ちてゆくのだが、

流れが滞るとしずくが落ちなくなる。

その様子をじっとベッドの脇で寝ずにみつめている母は

そんなときにブザーをならして、

宿直している看護婦を呼ぶのだった。

その管の詰まりは時をえらばずに起こり、

また重なる時には重なって

真夜中にいくどもブザーを鳴らすこともあった。

だんだんと、そんなふうに幾度も呼び出されて

疲労と嫌気に顔を曇らせてゆく看護婦はやってくると、

そのたびにひとりの外科の医師を呼んでくるのだった。

 

 

 

井村、という初老の、黒ぶちの眼鏡をかけた渋いおとこの医師だった。

井村医師は、おれの傷の対処を提案した医師で、

おれがそうして足に管を入れている間ずっと病院に宿直していたのだった。

看護婦に呼ばれると、薄明るい廊下からカーテンをかきわけて白衣でやってきて、

おれにはよくわからぬ機械の調子をみて、

薬のしずくがまた流れるようにして去ってゆくのだった。

真夜中で、そうしていくどもいくども呼び出すことにこどもごころに

すまなさを覚えるのだが、

そうして懐中電灯で膝を照らしては様子を見、

もくもくと機械を調整して柔和な言葉を残して去ってゆくすがたに、

なにか荘厳なものを感じて、

おれはなにも言えなくなるのだった。

 

 

 

ふたつき入院していた。

治療は奇跡的な効果をみせて、

おれは足を切らずにすんだ。

化膿もおさまると管ははずされ、

あの地獄のような夜からも解放されることになった。

それから病棟内の四人部屋に移され、

好きでもない熊のような犬のようなぬいぐるみを

同室の、金玉をぶつけてひとつ潰してしまった会津若松のおとこの子からもらい、

なぜかじぶんの名前をつけて愛でていた。

退院してからも周期的に井村医師に膝を見せにいった。

すこし膝を使い過ぎるとすぐに水がたまって腫れるのである。

「どうですか。」

すこしなまりのかかったことばで聞いてくるのだった。

おれは後年学校がきらいになり、

仮病をつかっては学校を休むようになるのだが、

その時の理由のおおくは膝の異常で、たいしたほどのこともないのに、

母とともに喜多方から電車で会津若松まで出てくるのだった。

「ちょっと、はれぼったくて。」

半分ほんとうなのだが、電車で小一時間はする若松に出てくるほどでもないのだった。

それでも井村医師は、いつも渋い顔で

管をいれた際に出来た三つのおおきな傷のあるおれの膝を両手で包み、

足首をもって可動に異常がないか確かめ、

レントゲンの写真を見、

「ちょっと水がたまってますね」

黒縁の眼鏡で

「湿布だしましょう。」

などと診断するのだった。

 

その右膝で

おれはろくに勉強もせずサッカーばかりして、

喧嘩をふっかけてはこどもの足を蹴りつけていたのだった。

経壇公園の池は、おれの事故があったせいか、

それからしばらくして埋め立てられた。

井村医師はそれからしばらくして新潟の方で

個人病院を開かれたそうで、

先年、亡くなられた。