「青い夜」

1370×920mm

2002

ポストカード化
 

 

 

トミさんが

エレベーターの前の暗がりで

寝ていた。

施設の

ワックスの磨きこまれた

冷えた床の上で、

こんこんと、眠っているのである。

その様に

なぜだか、

自分が

陽もまばらな

ふかい森のなかにいるような気がしてくるのだった。

陽をあびて、

しんせんな酸素を送りだしている木々の梢のしたを歩いていて、

ふいに

大木の根元で

寝ている老婆を見つけてしまったような、

そんな気がしてくるのだった。

辺りを歩き過ぎて、疲れたのだろう。

床はつめたくて気持ちがいいのだろう。

しんしんと、

眠っているのだった。

 

「トミさん。トミさん。」

声をかける。

部屋の電灯のひもをひいて、

明滅しながらようやく光が点くように、

目をさまして、

起き上がり、

トミさんは

あいまいに

正座の姿勢をとる。

「あ、あらあ。

トヨシマのおじちゃんでねえのお。

このまえおくったひものいもうとさんがたべっちゃって

そんときうちのとおちゃんおどろいてわらってなあ。

あれほんとはかってとっておいたんだけど

いもうとさんがはらーへたー、はらーへたー、っていって。」

目を輝かせて、

蕩々と言う。

トミさんは眼前のおれを見ながら、

トミさんの記憶のなかに息づいている

古い或るひと時の、

誰かと

出会う。

 

「そんでいでじまののうきょういってみんないもかって

こっちこーいこっちこーいって。」

トミさんの声はかぼそい。

かぼそくて、枯れている。

こんなふうに話しかければ、

まるで沙汰の途絶えていた来客がふいにおとずれたように、

迎えるようにして、

トミさんは堰を切ったように

そんなかぼそく枯れた声で

おもいでをささやくのだった。

いつもは、

無言で、

閉ざされた施設の一フロアを

歩いて、

歩いて、

歩いている。

疲れれば、他の入居者の部屋や、

床の上で、

眠る。

入れ歯が床の上に置いてある。

「妹さん、くっちゃったの?あらあ。

だから最近太っちゃったんだね。

このまえピンクのアロハ着てあるってたよ。」

自分でもよくわからないことをおれは言うのだった。

「あらあ、ピンクのお。

やんだあ。

そんななあ。

へへへ。」

トミさんはたのしそうに、ちいさくわらう。

やせた、整ったちいさな顔でわらう。

 

「ここで寝てるとトミさん風邪ひいちゃいますよ。

むこうにいきましょ。」

入れ歯をひろい、

手をとって、

それから、

歩きながら、

歌いはじめる。

 

 

『おてて つないで』

『のみちを ゆけば』

『みんな』

『かわいい』

『小鳥になって。』

 

 

そうして

手をつないで

うたいながらあるいていると、

車椅子の他の入居者や、看護婦、ケアワーカーが

行き来する明るい通路が、

秋の夕の、

収穫の終えた枯田のひろびろと広がる

山裾の畦道のような気がしてくるのだった。

すすきが群れ生えてゆれている

夕闇がせまるそんな畦を、

おれと往くトミさんは、

歌いながら往くのである。

おれと手をつないでいる

そんなトミさんが、

これまでの年月を生き抜いてきた年老いた女なのか、

それとも

小学校にもあがらぬ年端もゆかぬ童女なのか、

実際にはいるはずもない

自分の娘なのか、

おれには

判然としなくなってくるのだった。

判然としないなかを、

トミさんは

無心に歌い続けている。