連作祭壇画無主物

『原発事故避難  残酷な対比一 ー最初に逃げたひとー』

(二〇一六年七月)

 

「―なんで役場に連絡しねえで、

バスだけ用意してんのな?

事故の後すぐだから。

隣に住んでても言わないでじぶんらだ け逃げた。

避難してから仲悪くなっちまった。

なんで一言いっ てくれなかったんだ。」

  (福島県内にある大熊町仮設にて二〇一六年二月)

   

挙げた発言は二〇一六年の二月に訪れた大熊町仮設住宅の住民が発した言葉になる。
 
大熊町は御存じのとおり福島第一原子力発電所の立地町村。

この時の聞き取りが縁で翌年同行した住民一時帰宅の際には、

低減しない放射能 汚染程度により依然としてひと月かふた月に一度計画される避難バスに 乗り、

帰宅、

二時間の範囲に限り滞在が許されるというような状態だった。

〔Okuma,2016 Feb with a inhabitant. 3μSv/h, 1700CPM detected from my covered sole in 2 hours.〕

 

主語が欠けているが、

この文章の主語は、

東京電力福島第一発電所で働 く東京電力社員の家族、

原子炉の設計管理に携わった東芝および日立の やはり社員の家族である。

大熊町の仮設住宅に住む彼らへの聞き取りを してゆくうちに、

五年を経ても拭えぬ恨みのような言葉として彼らが口々にまず言ったのがこの言葉だった。
 

住民の多くは翌日の二〇一一年三月一二日午前中に避難を開始する。

だがその時の状況では、

とりあえず避難バスに乗れ乗れと役場の人間に 言われるばかりで住民にはその理由は聞かされなかったという。

逃げた 先の村の公民館、

そこで点いていたテレビを見て初めて原発が危機的な 状況であったことを知る。

聞き取りをした住民のなかには五年の間一度 も戻っていないという人間もいた。

この話はずいぶん前にやはり大熊町 出身の元原発作業員の男からも聞いていた。

その男性は作業員としての 経験を重ねていて、

福島第一ならばほぼ入ったことがない場所は無い、

そんなことを言う男だった。

作業員同士の連絡網があるのだろう。

三月 一一日の時点で一号機の原子炉圧力容器の圧力が上昇し、

下がらない状 態にあることがわかると彼らは家族をまず避難させていたことを苦い嗤 いとともに自分に話していた。

逃げた先は新潟。

茨城交通のバスで逃げ たという。

 
残酷な、対比。

 
事故前の大熊町では、

電力会社の家のこどもと下請け企業の家のこど もとの関係にもこの冷酷な上下構造が時として顔をのぞかせていたとい う。

それはこどものけんかの話だったが、

立場のちがうこども同士の関係、

交流があったということでもある。

住民にとっては来た理由も不明だっ たバスの列は、

いずれにせよ、

こうしたこどもとの間にも冷酷な別離を もたらしたのではないかと思う。
 
国会事故調査報告書にも、この関係者だけがまず無言で逃げていたこ とについての記載はない。