「お花見」

A4

2002

 

ガラス戸の外は、満開の桜だった。

 

おれは、働きはじめの初日、

施設の居間として使われていたそのスペースの端に、

介護のアルバイトとして立ち尽くしていた。

春のさかりの温気が閉め切られた屋内にこもって、

眠りを誘うようだった。

明かりのついていないうす暗いなかに、

十人にみたぬ老いたひとびとがあつめられ、昼食が運ばれてくるのを待っている。

新入りのおれは職員のすることをとりあえず見ているように言われ、

手の出せぬ身の置きどころの無さに、

もとからのせっかちさもあって必要以上にじりじりと焦れるようなきもちで立っていたのだった。

眉根に、嶮しい皺をよせてテレビを睨んでいる、短髪の、車椅子の老女。

両の掌で、顔をぺったりと覆っているうつくしい銀髪の車椅子の、老女。

うつむきかげんで、じっと、世界の片隅の音を聞きわけようとしているかのような顔の、

茶の髪の、老女。

この三人の食卓がひとつ。

リクライニング式の車椅子に、複雑なかたちで両の腕を折り曲げ、

じっとどこかを見つめている、短髪の、老爺。

枯れた花のようになった、両の目を閉じてうごかぬ、

ただ口だけがぽっかりと開いている、黄色いリクライニングの、老爺。

眼鏡をかけた、肌のすべすべとした、色の薄い髪のまっすぐの、車椅子の、老爺。

骨太で、どこか白人のように見える、瞳の色の薄い、導尿管の出ている、車椅子の、老爺。

おとこだけの食卓がひとつ。

食卓からはなれて、窓際に、

ベッドごと移動させられてきた、唾液をずっと口のなかで転がしている、

痩せきって、ひな鳥のようになった、老女。

職員は、自力では食事の摂れぬ者のわきについて、

噎せぬようにゼリー状にされた茶をスプーンで掬ってあたえている。

みな、無言だった。

 

「たすけてッ」

 

ふいに、ベッドのなかにいる老女が叫んだ。

「クジさん、だいじょうぶですよー。」

おとこの職員が、なぐさめのようなことを言った。

「すいませんッ」

老女がまた金切り声で叫んでこたえた。

こたえた老女のベッドからそのまま脇に目をうつして窓の外を見ると、

満開の桜だった。

開けたくなった。

外の空気を、入れたくなった。

新入りでも、おれは反抗的だった。

働きはじめの時は、陽気がよければ戸を開けてばかりいた。

閉じられたこの空間に、外の空気を入れてやりたい。

 

象徴的な意味でも。

 

 

どの職場でもかわらないだろうが、

新入り、なかでもなんの実績も経験もない新入りに出すべき口などないのだが、

ごくしろうとの感覚、ただ生活するにあたっての「素(す)」のままであることが、

じつは介護には必要なのではないか、生きる余地があるのではないか、

そんなことを経験もないのに思っていた。

その素の感覚を割り込ませることが、すでにそこに練り上げられている既存の職員たちの感覚を

ゆすぶる、欠如を突きつけるような格好になること、

衝突の火種になる可能性があることに、おれはひりつくものを覚えた。

ただ、そうして癒着したような感覚の寄り集まりから離れた場所で生き続けて来たじぶんには、

素のままでいることにも可能性があることに、

なにかはじめて場所を与えられたような気がしていた。

けもののままで、

にんげんと大手をふって喧嘩をしてもいい場所を見つけたような気がしていた。

とはいうものの結局、この癒着した感性群との衝突は、

新入りであるということとは無関係であって、

新入りでも、癒着のほうにすすむことが是であることを疑わず、

癒着の一部へ溶けこもうとし、そして癒着に迎えられる、

そうしてなにがしかを伝達され積み重ねてゆく、

そんな者が大部分だった。

またそれこそが世の中で生きてゆくうえでの

「処世」

というものらしかった。

ただ、

おれには、

生きてゆく動機もなく、欲もなく、

早いうちから学生のうちに死んでしまおうと考えていて、

さまざま実行にうつして、たまたま、生き延びたような身だった。

就職活動の時期になにもせず、

ひとり飲み過ぎた抗精神薬にやられて、

泥のようになっていたおれをみかねて、

母がホームヘルパーの講座を受けるように言った。

生きてゆきたくもないので、

働くことにもなんの理想もなかった。

また一方で、どんな仕事だろうがかまわない、とも思っていた。

働こうが、働くまいが、どっちでもよかった。

おろかしく、

言われるままに講座を受け、

講座を終えて、その施設にやってきたのだ。

そんな身には、そうした「生」に向かう身の処し方というものは、

その仕組みというものは分かりはするが、

その人間の連帯に癒着するほどの価値があるのかどうか、のほうが重要なのであって、

あらためてじぶんが生き残るためにそうした身の振りかたをすることを想像すると、

じぶんが採るべき道ではないと思うのだった。

それから後年、いつも選択を迫られるとき、結局のところで

おれは

 

『おまえは』

『癒着して生き延びてゆくのか?』

 

言葉にすれば、こんな、美意識をめぐるただひとつの問いにおのれを晒してみて、

そしてそのつど、

 

(ひとり衝突して、)

(殺されるほうがましだ。)

 

いつも、

この言葉を選んだ。

もとより、守るべきものもない。

自分自身そのものが守るべき価値もなかった。

捨てた命だった。

ひとり滅ぼされる場所を選ぶと、

そこにはいつも身を震わせる冷えた、しかし澄んだ風が吹いているように感じた。

しかし、

そのつめたい風がふくところこそが、

どうやら、

じぶんの

「生の現実」

そのものが露出したほんとうの場所らしかった。

精神薬をたらふく飲んで意識を喪いひとり部屋で潰れ、

あるいは醤油を瓶ごと生のまま飲んで便所でそのまま吐き出し、

首を括ってみたり、

からだを切って失血死を狙っていたろくでもないじぶんの死、というものが

老い惚けた老女や老爺のために使えることに、

おれはなにか痛快なものを感じ、陶酔を得ていたのだった。

後年、そうして衝突を繰り返すおれを見て、

おとこの職員が

「ヒギタさん、」

「ツボイくんに、世の中の泳ぎ方ってやつを教えてやってくださいよ。」

水泳が得意だった、という老女に、おれへの当てつけを言った。

泥を飲まされるように感じた。

 

 

 

ひりつくこころを抱えたまま、

試すように

「戸を」

「あけてもいいですか。」

ベッドのなかで叫び声を上げていた老女のわきに座って

ゼリーをあたえている若い酷薄な目のおんなの職員に言うと、

「いいよお。」

こちらのそんな思惑を知ってか、言った。

やはり、すこし複雑なものがまじった声だった。

四枚の戸をすべてあけると、

凪いだような、爛漫の春の風が薫って、

ゆるく、

暗がりに入ってきた。

 

「ああ。」

 

「クジさん」

「春の風だよ。」

 

その女の職員が言った。

「ほんとッ」

口を回すようにしながら、老女が叫んだ。

三階にあたるその居間の暗がりから外を見ると、

なにか荘厳な屏風絵のように桜並木の梢が居並んで展開していた。

無数の花びらが、音もなく無心にこぼれおちていた。

耀くようだった。

 

 

昼食を食い終えると、

汚物処理室、とかかれた鍵のかかった部屋にむかい、ガウンを着るように言われた。

定刻になると、みなをトイレに連れてゆき、排尿させたり、

尿パットを交換するのだった。

介護畑で働くことを考えている者は、実地に働く前の研修で

一通り経験することなのだが、

おれはごく簡便な研修先で経験していなかった。

それで、戸を開けるやりとりをした女の職員についてやりかたを見ることになった。

汚れたパットやおむつを入れるバケツを持ち、

きめられたサイズのきれいなパットを手に居間に戻ると、

順繰りに入居者に声をかけてトイレに連れてゆく。

汚れていたら、あらかじめ温められた布で下(しも)を拭いた。

汚れ物を見ても、

きたないものとは思わなかった。

影のような、生きてあることにまつわらざるを得ないものを見て

ただあわれに思うだけだった。

最後に、テレビを嶮しい顔で睨んでいる老女に声をかけた。

「ナカタさんトイレいきましょうね。」

おんなは言い、

反応を確かめず車椅子を動かした。

「なんだあ?」

「てめえらはいつもいつもトイレトイレトイレトイレって」

「だあれがいってやるもんかッ」

「ふざけたこというんじゃないよッ」

ナカタさんは、

動かされてゆく車椅子のうえで昂って口早に罵りのことばを吐き出した。

「はいはい。」

職員はてきとうにあしらい、車椅子を動かしてゆく。

「ハイハイハイ、ってばかがきまりきったよーなことをいいやがって」

「なんでもはいはい口だけ言ってりゃいいと思ってッ」

「わらっちゃうよ。」

「てめえらいつかみてろお。」

こちらをふりむいて言う。

昂ったまま、一番近くの四人部屋に入り、

クリーム色のカーテンのかかったトイレに入った。

おれもなかに入る。

カーテンをひく。

ナカタさんを、車椅子から立たせないように拘束してあるベルトの留め金を

背面で外して

「ナカタさん立って。」

職員が言った。

「だあれがたつもんかッ」

「だあれだこの若造は」

「てめえらよってたかって」

「おまえらばかだろ。」

「ばーかばーか。」

見開かれた目で、罵り続ける。

おおきな目が血走っていた。

「ナカタさん、パット交換するよー。」

「パット、だあ?」

「わけのわからねえこといいやがって」

「くるとなるといつもパットパットパットパットパットって」

「ばかのひとつおぼえみたいにいいやがって」

「はいつかまってー。」

「いたいいたいいたいッ」

「なーにするんだよおうッ」

職員が強引に引っ張り上げると、手すりを掴んで立つ。

「てっめえらいつかみてろお。」

「たーだじゃおかねえからなあ」

「いつでも待ってますよ。」

職員はたんたんと、憎まれ口を利いた。

ズボンを降ろして、おむつを外し、パット抜き、バケツに入れる。

重いものが入った音がした。

拭き浄める。

「あついあついあついッ」

「なにするんだよおッ」

無言であたらしいパットを当て、

膝をあてておむつをし直す。

ズボンを上げる。

ベルトを留める。

「はい、おわり。」

「なーにがおわり、だッ」

「てめえらのいうことなんかにどときくもんかッ」

「はいはい。」

「まーたはいはい、いいやがってッ」

居間にもどった。

 

 

気に食わないやり方だった。

 

 

どうにかうまくできないものか。

 

思った。

 

 

 

 

 

翌日、おれはひとりでトイレ誘導をおこなうことになった。

ナカタさんにまずべつの髪の長い女の職員が声をかけたのだが、

また罵られ、その職員はいくぶん機械的でなく、

「じゃ」

「また後にしようかな。」

といい、

「ツボイくん、」

「ナカタさん、おねがいしてもいいかな。」

と言った。

おれは、ナカタさんの脇に座って、

「ナカタさん、こんど働くことになった壷井、と言います。」

「よろしくおねがいします。」

とじぶんの制服に縫い付けたじぶんのマジックで書かれた名札を

突きだして挨拶してみた。

もうすこし、人として接して見たら、そこまで昂ることもなくことが運ぶのではないか、

そう思ったのだ。

ただ、そんなもくろみはあまく

「なんだあ?」

名札を、やはり眉根に皺をつくって睨むと、

「てめえなんかしらないよッ」

「なんだってんだよ」

嶮しい顔で口早に言った。

「ナカタさん、」

「トイレいきません?」

「いかないよ」

テレビを睨んだまま言う。

「でも、いま行っておいたほうがいいですよ。」

「いーかーなーい。」

「いかないッ」

「てめえらはまたトイレトイレトイレトイレトイレって、」

「そんなにたくさんトイレがあるのかよッ」

「わーらわせるんじゃないよッ」

目を見開いて昂りはじめる。

「でも、ナカタさん、今せっかくだからトイレに行っておきませんか?」

「いかないよッなんでいかなきゃならいんだよッ」

「ナカタさん、ぼくあたらしいパット持ってきたんですよ。」

「まーたパットパットって、おまえがすればいいんだよッ」

「わーらっちゃうよッ」

機械的にすませば、もう終わる頃だった。

ただ、機械的にすませたくない。

どうにかして、平和裡に行いたい。

ほんとうに、機械的にしか運べないのだろうか。

無頓着にあの方法に染まりたくない。

 

 

どうにかして、

あいつらのやり方を、

転覆させてやりたい。

 

 

職員の仕事ももろもろのことが詰め込まれて、時間は限られている。

じりじりとしながら、ただ、また片一方のきもちではいくら時間がかかろうが

かまわない、とも思っていた。

「いまトイレに言ってきれいなのに替えた方がいいですよ。」

「そうしたらたぶん」

「きもちいいですよ。」

そうしてただ、することの効用をこんこんと説明していると、

ふいに、

 

「じゃあ」

「いくべえか。」

 

ナカタさんは言った。

おもしろいもので、それ以降、たったその一度のやりとり以降、

ナカタさんとおれとの間に信頼関係が生まれた。

湯気に満ちた風呂場で、

修羅場のようにせわしないなか、

職員に囲まれてなかば有無をいわさず強引に入浴させられ、

素っ裸で入浴用の車椅子にくくられ目を剥いて昂りの極にあるような顔をしていても、

おれが顔をのぞかせると

「あ」

「にいちゃんだ。」

顔を変える。

「あ」

「クル子さんじゃないですか。」

わざとふいに街角であったように声をかけ、

「風呂ですか。」

言うと、

「そうだよ。」

柔和な表情になった。

「あ。」

「ぼくがお手伝いしましょうか。」

「そうかそうか、」

「じゃ、はいるべえか。」

痛快の極みだった。

 

 

おれは、

ナカタさんを、クル子さん、と下の名で呼ぶことにした。

なんだか苗字で呼ぶほうがふさわしいひとと、

名で呼ぶほうがふさわしいひとがいる。

親密さの出かたがちがうのか、よくわからなかったが、

クル子さん、と呼ぶことにした。

ごく平和裡にトイレから居間に戻り、

クル子さんをテレビの前の定席にもどしてあげると、

一連のやりようを見ていた髪の長い女の職員が、

「拍手。拍手。」

と言い、脇を歩いていた男の職員も呼んで

「ほらカワラさんも。」

ふたり、同じ真似をした。

 

おれの魂胆を知っているのか、疑問だったが。